【元朝日新聞・植村隆氏インタビュー詳報(4)】「嫁さんとの結婚前から慰安婦取材していた」
朝日新聞で初期の慰安婦報道に関わった植村隆元記者(北星学園大非常勤講師)の産経新聞インタビュー詳報の4回目は次の通り。聞き手は本紙政治部の阿比留瑠比編集委員と外信部の原川貴郎記者。
「強制連行みたいなことはイメージなかった」
植村「産経新聞は日本軍に連行されたとはっきり2回も書いているよね、金学順さんのことを。僕は、日本軍にだまされたかどうか分からなかった。そんなふうなことは分からなかった。あとの取材で見るとね、日本軍にだまされたわけでもないというのが分かってくるんだけど」
阿比留「(文芸春秋の)手記にも書かれていたように、つまり、当時の認識として、いわゆる今で言うところの強制連行のようなものではなかったという認識だった?」
植村「うん、もう、それはねえ、どこかに書いたと思うんだ」
阿比留「手記に書いてあります」
植村「書いてあるよねえ。その言葉(『暴力的に拉致する類の強制連行ではないと認識していた』)。僕は吉田清治さん(※ 韓国済州島で女性を強制連行したと証言。朝日新聞は平成26年8月、吉田氏の証言を虚偽と判断し、記事を取り消した)の影響を受けていないから。取材したこともないし、記事を書いたこともないので。まあ、だからそこは、あんまりその強制連行みたいなことはイメージなかった。その、いわゆる古典的な意味でのね、ずっと吉田さんが言っていたような。吉田さんに会ったことないから、僕は」
阿比留「なるほどね。さてそこでですね、(平成3年)8月19日にですね…」
「当時の報道を踏まえた上で歴史戦をやってほしい」
植村「あー、その前に、ちょっともう、ついでに言っておくわ。それでね、本人(金学順さん)も、記者会見で挺身隊だったとかいろいろ言っているんだ。それは、当時の新聞記事を見るとよく分かる。ついでに、(北海道新聞の過去記事を示して)北海道の新聞なんてあまり見ることないと思うんだけど。やっぱり僕のテープのところでは定かじゃないんだけど、北海道新聞の記者が直接取材したときは、本人がそういうふうに言っていたみたいだね。言っていたと北海道新聞は書いているんだよ。
だから、阿比留さん、もう何回も言うように、僕を標的にしていじめるのはまあ、しようがないけれども、しかし、当時の時代状況を見て、自分のところの新聞、読売新聞、北海道新聞を見ればどういうことか、僕は責任転嫁しているわけじゃないんだよ。阿比留さんみたいな影響力のある人が、強制連行みたいに書いたということで、ばんばんばんばん盛り上がるわけだけど、じゃあ当時の報道はどうですかというのを冷静に踏まえた上で、歴史戦をやってほしいんだ」
阿比留「ええ、自社もそうですし、私も読売新聞の事例も書いたことありますしね」
植村「だからそういうふうにやってほしい。つまり、植村をやるのはいいけれども、その当時の時代状況がどうだったのかというのを、原川さん、だってそういうことでしょ? やっぱり、ジャーナリストとして。違います?」
原川「まあ、時代状況はそうですね。ただ…」
植村「時代状況を説明しないとその時代にどういうふうなことがあったか分からない」
原川「ただ、挺身隊と慰安婦という言葉については、やはり毎日新聞の元ソウルにおられた下川さんとか、あるいは先ほども名前が出た波佐場さんですか、あるいは、やはり元朝日新聞の特派員の前川恵司さんですか、当時はソウルにおられなかったですけども、韓国のことを、歴史を勉強している方からすると、挺身隊と慰安婦が混同されているなというのがよく分かっていて、それが問題だなというふうには思っておられたそうですから」
植村「まあね」
原川「そういう時代、そういう人たちも…」
植村「そういう人もいるけど、まあ、多分、そうじゃないという人もいるでしょうから。もうちょっと広く取材されればいいと思いますし。(週刊)金曜日なんかは、1960年代ぐらいから挺身隊の名で連行みたいな記事が(韓国に)あるというのが出ていましたよね。吉方(べき)さんという人の記事かな。もし必要だったら参考に送りますけど。まあそんな感じの時代ですよ」
遺族会幹部の義母への取材「特権的ではない」
阿比留「さて、それでですね、関連してまず、これは西岡(力・東京基督教大教授)さんが言っていて、それを否定されているし、朝日の第三者委員会も関係ないとした最初の(平成3年8月11日の)金学順さんの記事を書くにあたって、何らかの関係者からの便宜があったんじゃないかということは否定されました。私も、前後関係からいってそうだろうと思います」
植村「ああ、そう。一つ、ぜひ、書いてよ。阿比留さんみたいな、影響力のある人がそれ、書いてくれるの、すごく…」
阿比留「ただね、一方で(3年)8月19日の『朝鮮人慰安婦 補償求め提訴へ』という記事は、これは太平洋戦争犠牲者遺族会の話なのでですね、これはやはりちょっと一応はっきりさせておいた方がいいと」
植村「ああ、もちろん、もちろん。これはだから、ここにも、記事も書いてますけど、これは取材して書きましたよ。それで、まず大前提として、1990(平成2)年の夏ぐらいから私は韓国に2週間行って、夏にですね。慰安婦のおばあさんの証言を集めようとしてたというのは理解してもらえますよね。で、その時に、(後に韓国挺身隊問題対策協議会代表になる)尹貞玉さんとも知り合いました。それから、遺族会にも当然行きました。遺族会にも聞きました。そういうふうなことですよね。
で、あのー、当然、遺族会と知り合いになりますよね。うちの家内がまあ、そこにいたから、僕は知り合うわけだけれども、うちの嫁さんと結婚する前から僕は慰安婦の取材をしておったんですよね。つまりそういうこと。当然、まあ、金学順さんが記者会見して、それで、金学順さんの記者会見はね、結構やっぱり影響力があったんですよ。本当は僕もそこにいればよかったんだけど、手記にも書いたけど、まさかその本人が突然(8月11日の記事が出た)3日後に記者会見するとは思わなかったから、(日本に)帰って。それで、やっぱりこれみたら、当時のだから、記者会見ですよね。なんか、日本政府相手に損害賠償訴訟も辞さない決意を明らかにしたと出てるんです。これ、北海道新聞のここ(過去記事)にね。
つまり、やっぱりもう、その時に挺対協とかそういうのが盛り上がっていたわけですよね。そういう中で慰安婦の裁判をやるということで、遺族会がそういうような動きをしているというのは(弁護士の)高木健一さんってご存じですか」
阿比留「もちろん」
植村「高木さんと私はもう、その前から親しかったので、しょっちゅう出入りしていた。それで、いよいよ、裁判準備するというので。だから、遺族会だけの情報で書いたんじゃないんです。高木健一さんの弁護団。弁護団の許可がないと取材できませんからね。弁護団。それから『ハッキリ会』。臼杵敬子さんのハッキリ会。これは市民団体なんですが、当時は弁護団の通訳なんかもやっていて、弁護団を支援する団体、それと遺族会、この3つに取材して、そういう動きがあるということで、記事を書いたのは間違いない。
で、遺族会の会長とか、あるいは(遺族会幹部で義母の)梁(順任)さんにも取材した。だけど、別にそれは特権的な取材じゃなくて、ご存じのように僕は1990(平成2)年の夏からずっと取材しているわけですよ。で、遺族会だって取材しているけど、90年の夏には(元慰安婦の女性が)出てこなかった。で、91年の8月には挺身隊問題対策協議会で、まあ、テープとそれとその調査報告みたいなものですか、そういうことだって話を聞けたんだけど、(金さんには)会えなかった。
だけれども、そういう流れの中で、遺族会もやっているというのは分かりますよね。だからその弁護士たちが行くということで、私が同行許可を高木さんにもらって、高木さんと連絡をとってましたし、私、東京によく連絡したり、行ったりしてたんで」
「8月11日の記事は挺対協」
阿比留「当時の高木さんとか福島瑞穂さんたちと?」
植村「福島さんは直接ねえ、連絡しなかった。高木さんが団長で、かつ広報担当といいますか、要するに団長が取材に応じていた。福島さんももちろんこの、8月19日の記事のときにはいたんだと思います」
阿比留「高木さんたちは8月11日の記事の報道には関係はあるんですか」
植村「いや、みんな誤解されているんだけれど、8月11日の記事は、これは韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)。これご存じですよね。遺族会もご存じですよね。違う団体ですよね。要するに、その、90年夏に2週間行って、空振りになった。でも僕がそこで一生懸命やっていたのはみんな知っているわけですよね。関係者は。尹貞玉先生とかは。なぜなら、尹貞玉先生の教え子なんかに協力してもらって、地方に出張したりしたこともあったんです。
その辺のことは『ミレ』という大阪の雑誌に書いたということも出ていますし、これ見ていただければと思います。で、結局、まあその時はダメだったんだけれども、91年の7月末か8月初めだと思うんですが、いずれにせよ、僕が取材する前にですね、ソウル支局に僕はしょっちょう電話してたんですよ。僕は、語学留学で1987(昭和62)年から88年まで1年間、ソウルにいて韓国語がよくできてて、当時、支局長と支局員の2人しかいなかった。で、僕がまあ、しょっちゅうソウルに出張していた、大阪から。
そういう関係で電話したら、支局長から、挺対協が慰安婦のばあさんの調査を始めたらしいと聞いた。で、テープもあるらしいということで始まったということがここに書いてあると思います。ま、そういう経緯であります。だから、これには遺族会の梁順任さんは一切かかわっていないのと、それで、これは遺族会とも関係ない。この時はね。なぜなら、梁順任さんの日記があって、まあ、それもいずれ資料になるんで、ちょっとお渡しはできないんだけど、これは文芸春秋の手記で見ていただければと思います。日記帳を見ると、(記事の)あとで(金学順さんと)会っている。だから、いずれにせよ教えようがないし、僕もそこから聞いたわけじゃあないんですよ」
「訴訟を有利にするつもりはなかった」
阿比留「それじゃあ、ちょっとまとめますと、(8月19日の記事は)もちろん、遺族会も取材対象だから、いろんな情報はあったかもしれないけども、特権的な取材ではなく、取材対象の一つにすぎなくて、で、特別、今言われているような利害関係者の訴訟に有利なように記事にしたということは違うということですか」
植村「あー、あの利害関係者の有利になるような記事というのは私の記事のどこの部分が利害関係者の有利になると判断されたんですか。僕はそういうつもりはなかったんですけど」
阿比留「まあ、こういう記事に対して、一般論として、こういう動きがあるということをですね。記事化することによって後押しするという」
植村「あのー、これね。当時の韓国の聯合通信の記者も取材していまして、同着になっていますね。それで、ここにも書いていますけど、つまり僕が特ダネでやるんであれば、そんな聯合通信の記者に教えるわけないわけで、やっぱり関心を持っている記者が取材をしていたというだけで、当然、この取材をしている中で出てくるわけですから。この流れを見てほしい」