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【元朝日新聞・植村隆氏インタビュー詳報(3)】「時代状況を分かってほしいんだ、阿比留さん!」

【元朝日新聞・植村隆氏インタビュー詳報(3)】「時代状況を分かってほしいんだ、阿比留さん!」

産経新聞の取材を受ける元朝日新聞記者の植村隆氏(中央)=7月30日、札幌市(早坂洋祐撮影)

 朝日新聞で初期の慰安婦報道に関わった植村隆元記者(北星学園大非常勤講師)の産経新聞インタビュー詳報の3回目は次の通り。聞き手は本紙政治部の阿比留瑠比編集委員と外信部の原川貴郎記者。

「テープだけ聞いて書いたわけではない」

植村「(言いたいことは)分かりました。それが、まあ、いつも阿比留さんがおっしゃっていたことなんで、ここで言いましょう。阿比留さん、僕の記事(1991年8月11日付朝日新聞大阪本社版社会面記事)って読まれたことあります?きちんと」

阿比留「きちんとと言うか、どの記事ですか」

植村「だから僕のその、批判されている記事」

阿比留「ああ、読みました」

植村「じゃあ、ちょっと見てみましょう。(資料集の)5ページですよねえ、どうぞ。この記事というのはですねえ、まあ阿比留さんも新聞記者を長くやられているから分かると思いますけれども、信頼できる韓国の団体が慰安婦のおばあさんの証言を取り始めた、というのがメーンの記事ですよね。前文にありますよね、女子挺身隊の名で戦場に連行された朝鮮人慰安婦のうち一人がソウルに生存していることが分かって、韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)が聞き取り調査を、作業を始めたと。まあ、要するに新聞で言うところの一報なわけですよね。その場合、当然信用できる団体が調査しているということで取材に応じてくれた。そして記事を見ていただくと分かりますけれども、これ『尹(貞玉)代表らによると』というのがずっと長くあって、つまりテープだけ聞いて書いたわけではないのです。突然僕が一人の部屋に置かれて、テープだけ聞いたわけじゃない。テープを聞きながら解説をしてもらうわけですよね。調査団体に」

阿比留「テープを聞きながら解説をしてもらったわけですね」

植村「テープを聞きながらというか、先に解説してもらってテープを聞かせてもらったんだと思いますけど。同時にやると、だって二重の言葉になって、聞き取れないでしょ。だから要するに、何かテープだけで書いたとか、よく、たぶん言われるんですけれども、テープだけじゃなくて、当然、調査団体の調査結果というのは聞いているじゃないですか。それはここの部分ですよ。原川さん、ちょっと見てください。『尹代表らによると』というのがあるでしょ? ここは要するにテープじゃなくて尹代表の情報でありますよね。だからほら、僕らの取材ってそうじゃないですか。テープ一つ聞いて勝手に書けとかいって調査団体は言わないよね。ということ」

「最初から『チョンシンデ(挺身隊)のハルモニ』」

阿比留「うーん。それでですね、そのテープの中には、西岡(力・東京基督教大教授)さんがよく指摘していることでもあるんですが、挺身隊の名で連行されたという、『挺身隊』という名前は出てきているんですか」

植村「それは、阿比留さん、1月9日(の提訴後の記者会見時)に聞かれた(質問)ですよね」

阿比留「ええ」

植村「だからまあ同じ答えです。それはやっぱり、あの、定かじゃないですね。で、なぜ定かじゃないかと言ったら、当時、あの、もうこれ、何回も言いますけど、韓国では女子挺身隊とか挺身隊がイコール慰安婦だったんで、僕も尹貞玉さんの取材をするときに、チョンシンデ(挺身隊)のハルモニというわけですけどねえ。チョンシンデハルモニの取材をするということで。向こうもチョンシンデのハルモニが証言したということでやっているわけだから、当然最初からもう、まあ慰安婦という言葉じゃなくて、チョンシンデのハルモニの話だということでずっと聞いていたから、所与のものと言いますか、もう前提というか、そういうこともあるし、当時、韓国では尹貞玉さんの取材をした人たちは皆、資料集の中にも書きましたけど、3ページね。もう、いろんな形で、当時使っていたわけですよね。挺身隊。だから尹貞玉さんの話を聞けば、だいたいそういうふうに書いていた。だから…」

阿比留「あのー、分かります。その事実関係は分かります。それでお聞きしたいのは、女子挺身隊と慰安婦の混同が韓国でかなりあったというのは分かるんですね。で、植村さん自身はどう思われていたんですか」

植村「僕もね、それは手記でも書いていたんだけれども、当時、韓国に行ったら分かるんですけど、挺身隊イコール慰安婦という形で使われておったんですよ」

阿比留「はい」

植村「この3ページのところに、まあ、植村はこんなことを、ほかの新聞社をあげて言ったとか言われるとあれだけど、まあ、要するに当時、そういう状況だった。で、それね、なんでかといったら、これもちょっと阿比留さんにあげようと思って持ってきたんですけど、これ見て(平成3年9月3日付産経新聞大阪本社版生活面の記事を示す)」

「読売とか産経とかに出ている」

植村「産経新聞だと思うんですけれども、まあ、挺身隊の名で戦場になんとかなんとかみたいな言い回しの記事というのは当時、読売とか産経とかいろんなところに出てるんですよ。つまり当時はどこでもそういうフレーズがあったの。私もそれが全く前提でしたね」

阿比留「弊紙がどこまで使っていたか分かりませんが、使っていたとして責任逃れする気は全然…」

植村「責任逃れとかじゃないの!阿比留さん! 僕はそれで捏造記者って言われているんですよ。ねっ? だけどそういう時代状況だったということを分かってほしいんだ、阿比留さん」

阿比留「ええ。だけど、そういうことは分かるんですが…」

植村「じゃあ、これ産経新聞なんだけど、これ尹貞玉さんにインタビューして書いた記事だよ。つまり、当時、尹貞玉さんたちは、そもそも(韓国)挺身隊問題対策協議会と書いているじゃない? だから挺身隊ということで慰安婦のことをずっと語ってきていたから、これがあったんだよね」

阿比留「ただね、朝日新聞の中でも波佐場さんのですね、挺身隊と慰安婦…(注:朝日新聞の波佐場清ソウル特派員は平成4年1月16日付朝日新聞朝刊のコラムで、「慰安婦」と「挺身隊」が混同されていると指摘していた)」

植村「まあもちろん、それはその後にはそういうことがあったでしょう。しかし、これは混在していた時代の話ですよね。で、これだって同じ時期」

阿比留「いや、だからね、私はね、これを書いた記者は、ちょっと署名が入っていないから分かりませんが…」

植村「これはどうですか? 阿比留さんから見たらこんなのやっぱりどう思うのかな。僕は、当時は当然、産経もそういうことがあったんだろうなあと思って。ちょっとそれも今日聞こうと思ってね」

阿比留「まあこれもなんか少し逃げた書き方ですけど、間違っているかもしれませんけどね。ちょっと、あの、それでね…」

植村「まあ、だから時代状況で…」

阿比留「はいはい」

植村「…植村も韓国でそういうふうに使われていたのを使っていたということです。もう、それを理解してほしい。だからそれをあなたたちが判断するのは自由だ。だけれども、自分たちもこういうふうな慣用句を使っていたのにもかかわらず、僕だけをそういうふうに言うというのは一体どういうことなの?」

阿比留「それはね、植村さんが韓国留学経験もあって、一応韓国の専門家だと思ってるからですね、一般の記者だから許されるという話じゃないけども…」

植村「いやいや、だから一般の記者だったら許されるとか許されないじゃないと思うんだけれども…。韓国留学経験でおっしゃると、阿比留さんね、(資料集の)7ページ見てもらえます? これは北海道新聞の記者が(平成3年)8月14日の(金学順氏の)単独インタビューの時に書いている記事ですね。原川さん、ちょっと見ます? それでね、7ページを見るとね、(読み上げる)≪戦前、女子挺身隊の美名のもとに従軍慰安婦として戦地で日本軍将兵たちに凌辱されたソウルに住む韓国人女性が14日、韓国挺身隊問題対策協議会に名乗り出、北海道新聞の単独インタビューに応じた≫とあるわけですよね? 同じ…、まあ、ちょっと違うけど、女子挺身隊の美名のもとにというふうな表現がある。つまりこの人は韓国語ができるソウルの支局長ですよ。で、この人に僕は聞いた。それは文春の手記にも出ていると思うんだけど、この筆者は『あなたがそんな取材をしていることは知らなかった』というのです。あれ大阪の記事ですからね。やっぱ当時、そういうふうなのが使われていた」

原川「当時、女子挺身隊と慰安婦の混同が韓国において見られて、それをそのまま当時は植村さんも…」

植村「うん、僕もそういうふうに。そうやったね」

原川「この(産経新聞大阪本社の)記者がどういうことでか、分からないけれども、他紙にも同じ…」

植村「まあ、当時だから、僕、思い出すと、当時、ほとんど挺身隊という言葉を使った。つまり、その時に、まさか阿比留さんに、二十何年後に攻撃されると思っていないから、普通にその慰安婦の意味で挺身隊という、僕は『チョンシンデハルモニ』とかいう言葉を使っていて、それが普通だったんだ。ソウルの一般記者であろうと、まあ、一般記者は分からないかもなんだけど、韓国語が分かる記者たちは。そういう時代だったんだよね」

阿比留「われわれね、その時代にね、私はもう社会部にいたか、地方支局記者だったか覚えていませんけど、当然、知る由もないわけですが、植村さんが言うことはなるほどと思う一方でね、例えば毎日新聞の元ソウル支局長の下川正晴さんとかが、一生懸命に挺身隊と慰安婦との混同を間違っていると言おうとしていたと」

植村「言っているのかい」

阿比留「言っていたらしいですね。挺対協にも申し入れしたし…」

植村「ああ、そう。それはちょっと下川さんに聞いたらいいと思うんだけど、僕はちょっと下川さんのその状況は分からない」

誰にだまされたのか「分からない」

原川「それで、1番目の質問のその記事ですが、これはテープにおいて金学順さんは具体的にどう言っていたかは先ほどの表現だと、定かではないと?」

植村「そうですね。それはもう(今年)1月9日に答えていますので」

原川「一緒に説明をされていた尹貞玉さんとか、挺対協の人たちは、テープの主は女子挺身隊として戦場に連行された人だと、そういう説明はして…」

植村「いや、女子挺…、あの、挺身隊のおばあさんだよと」

阿比留「挺身隊のおばあさんね」

植村「おばあさんね。まあ、それは挺身隊のおばあさん、チョンシンデ(挺身隊)ハルモニと言うんですが、これはまあ一つの用語なんですよ。いわゆる日本語で訳すと慰安婦のおばあさんというんですかね」

原川「強制という言葉は使われていないですが、そのチョンシンデハルモニが戦場に連行されたというこの表現はどこから? どういう情報を得てこう書かれたんですか」

植村「いや、まあだから、それは、だって、あの、本人がだまされて、行った先が戦場なわけじゃないですか。中国だけどね。だから、そういうことですよね。だって慰安婦というのは戦場以外には普通ないじゃないですか」

阿比留「あのお、それでだまされたということは最初の記事にもですね…」

植村「出てる」

阿比留「出てますけど、これ、誰にだまされたと言ってたんですかね」

植村「いや、それは分からない」

原川「だまされたとしか言ってないんですか…」

植村「まあ、だから、阿比留さん、僕から言わすと、まあ、かなり、そのまあ、非常にディテールの質問だと思うんだけど、それは分からない。僕はその時にだまされて慰安婦にされたおばあさんだな、ということがあって…。えー、でもね、考えてみたら17歳の女性がね、韓国では17というのは16くらいかな、日本で。どういう形で行ったかという、何十年前のことを正確に果たして言えるかどうか。で、金学順さんは強制連行されたというふうに受け止められる証言をずっとしているんですよ。だから産経新聞の記者も(産経新聞大阪本社版の1991年12月7日付や93年8月31日付記事を念頭に)間違いじゃない。その時はそういうふうに言っていたはずなんですよ。一番最終的な記録もそうなってる。誰にだまされたというのはもちろん聞いてません。つまり、だまされたということは、意に反して慰安婦にされたということだから」

<詳報(4)に続く>

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