【コラム】120年たっても変わらない日本右翼の野蛮な属性

120年前、日本は外交路線を変更した朝鮮の王妃を殺害
安達謙蔵「朝鮮のやつらが頭をもたげ日本を軽蔑」
その野蛮な属性がメディアの排せつ口を通して再びぶちまけられた

 乾清宮は簡素な場所だった。広い景福宮の中で、なぜわざわざこんな場所で暮らしていたのか、不思議なほどだった。事件現場の長安堂と玉壺楼は廊下でつながっている。この小さな空間で、全てが起こった。王と王世子は、妻と母の死を目撃したのではないだろうか。悲鳴を聞いたのではないだろうか。乾清宮に行ってみれば、あえて目を閉じ耳をふさがないかぎり、見たり聞いたりしないわけにはいかない、ということが分かる。思い出したくなかったのだろうか。結局、日本の皇室の一員に転落した恥辱のせいだろうか。高宗と純宗は、その日見聞きしたことを語ることはなかった。

 当時の明成皇后(閔妃〈ミンピ〉)の外交政策は、日清戦争の勝利で構築された韓半島(朝鮮半島)における日本の覇権を一挙に揺るがす冒険だった。漢城新聞社の社長で殺害に加担した安達謙蔵が残した記録は、当時の日本の胸中を明かしている。「朝鮮のやつらが、頭をぬっともたげてきて、日本を軽蔑した」。安達と共に殺害に加担した編集長の小早川秀雄は「日本帝国が完全に半島から排斥される一大危機だった」と記録した。

 評価は分かれている。外交路線の転換とともに、当時朝鮮にどうしても必要だった改革まで、日本の要求だからという理由で白紙にしたからだ。しかし歴史を読めば、日清戦争の勝利とともに野獣のように朝鮮をもてあそびだした日本の暴走を、ほかにどういう方法でけん制できただろうか、と悩むことになる。王妃の路線転換と殺害事件は、高宗と王世子がロシア公使館に身を寄せる「俄館播遷(はせん)」につながり、朝鮮における日本の気勢はくじかれた。その後、日本が覇権を取り戻すには、日露戦争まで10年の月日を要した。王妃の人生に対する評価は消極だとしても、王妃の政策自体は、国権防衛のための苦肉の策、と評されるべきではないだろうか。王妃が自らの死をもって残した長い時間を、生き残った人々が富国強兵と国権防衛のチャンスとして活用できなかっただけのことだ。

鮮于鉦(ソンウ・ジョン)国際部長
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