このブログでは、子育ての話をそれなりに書いています。統計情報だったり、他人や自分の体験談だったり、大きなところから小さなところまで、色々書いてきました。
この記事では、それらを整理してきて思い至った自分自身にとっての、今のところの、子育てのコツというか基本原則を書いてみます。当たり前ですけど、個人の感想であり、別にそうしなければならないということを強制・推薦するものでもないです。
育児書は全ての子どもには当てはまらない?
子どもは一人一人違うから、育児書の知見がその通りに適応できるわけではないというのが育児書の中の注意書きでよく書いてあります。実際、子どもは、先天的なもの、後天的なもの、確認できない要因で、誰もが普通であったり、平均通りに発達・成長するものではありません。
育児書で、この点が注意されているのは、標準より遅れているからということを親がむやみに気にしたり、この意識から必要以上に子どもを躾ようとして、親と子ども双方に無理をさせてしまうことがありがちだからでしょう。こういう注意書きがあるのは、育児書で役立つところは使いつつ、子どもの一人一人違う成長過程を見てあげましょうということだと思います。
子どもがそもそも一人一人違うことを親は認識できるのか?
では、子どもが一人一人違うとして、その違いを親や周りはどこまで認識できるでしょうか。
この子は言うことをよく聞くorよく聞かない、明るいor暗い、よく喋るor喋らない、落ち着いているor落ち着きが無い、運動ができるor運動ができない、物覚えがいいor悪い、といったことは、何となく分かるものか。そういった子どもの特徴に合わせて、習い事であったり、療育であったり、躾の程度であったり、褒め方であったり、そういうのをカスタマイズできるものか。
実際、物理的に子どもを見る時間が短い、他の子どもと比較する機会が少ない、プロから話を聞く機会がない、そもそもそういうものに気付く能力がない、こういうものが重なれば重なるほど、子どもの個性というのは認識しにくくなると思います。その子どもの特性が分からず、育児をアウトソーシングできない状況であれば、注意はされていても育児書通りにするか、自分の極限られた視野や経験から育児をするという選択肢ぐらいしか生まれません。
効果的な叱り方、褒め方をするためにはよく見ること
上に紹介した中でも、叱り方、褒め方というのは育児につきものであり、その運用について少なからず親としては悩むことがあると思いますが、色々コツはあるとして、ポイントはよく見てあげることというのは共通しているのではないでしょうか。
親からよく見てもらえているというのは(些細な変化に気付いてもらえるのは)、自己肯定感を育むことになることになるからというのが一つ。もう一つは、本人が意図的にやったことか、偶然そうなったのかという経緯や、どこまで本人がその結果に関与したかによって、叱られても褒められても子どもの受け止め方は変わるからというもの。
とはいっても、子どもの行為・発言の因果関係等一連のプロセスを理解した上で、具体的に、良いタイミングで叱る、褒めるというのを、突き詰めて、本気でやろうとしたらかなり大変です。
自分の目を肥やす、見る目を増やす、周りの肥えた目を利用する
だから、子どもの発達過程に合わせて何かを対応しようと考えるならば、まずはその子をよく見る目を用意することになるのだろうなと思います。自分自身の物理的に割ける時間を増やす、夫婦や親など多くの目を利用する、療育指導を受けたり、塾などのプロの教育者に頼むなど。
現実的に、一人の人間ができることは限られていますから、使える外部リソースがあるなら使うという手が出てきます。
親はなくとも子は育つのか?
もちろん、親があれやこれや考えて対処せずとも、子どもというのは自分自身で学ぶ力を持っている強い存在です。親が用意したようなもの以外のものの影響を自ら受けて成長する部分も大いにあります。子どもが自らの秘密を持ったり、自立していったりする過程においては、親が必要以上に目をかけるものもない。
ただ、子どもを上手く見ないようにするというのも、これはこれで簡単なものではないですよね。親が子どもから目を放す瞬間の見極めというのもあります。何しろ、子育てというのは、基本的には自らご飯を食べることもできない、排泄さえできない、放っておいたらすぐ死ぬ乳児を扱うところからスタートするわけですから。子どもが初期に修得するものの多くはどうしたって親が身に付けさせるものです。これは、やらないといけないこと。避けては通れない。
本人がしたいことをやらせると言ってもそれが危ないことだったらどうか。犯罪に絡むものの可能性もある。逆に何でもかんでも過保護でやっていたら自立しようもない。このタイミングで子どもを手放していいなんていう線引きなんて見えない。
子どもが子ども自身で自らの成長環境を用意する限界
その子に任せていて、成長できる環境を自身で選べるかといえば、成熟段階にもよりますけど、これもそう簡単ではありません。例えば、自分に発達障害があることを自覚できるのはとてつもなく難しいものであるし、子どもが持つネットワークには限界がある。本人の成長を育むための環境を用意するのは、やはり、親が対処する部分が大きいものです。
非常に初歩的なことで言えば、どの公園・児童館・施設に行けばお友達が多いか、少ないかだってそう。3歳児にはそんなことは分からない。体を動かすのが好きな子を庭で走らせ続けるか、サッカーチームを紹介するか。算数が大好きな子にそのまま庭の蒲の穂の数を数えさせるか、数学オリンピックの存在を知らしめるか。他の地域に連れて行ってみるか。
※いつも勉強させてもらっているnanaioさんのブログ。
子どもがいざ何かをしたい時にそれを選べるような基礎知力・体力、ネットワーク網をどう構築するかについては、子どもがまだ力を蓄えている時期であれば、親や周りのサポートが重要になると考えています。
※時々ピアノの森を読み返して、子どもの育つ環境と親や周囲の役割を考えています。
締め
ということで、子育てについてつらつらと自分が考えていることを書いてみました。
これをまとめようと思った一つのきっかけに、子どもは楽しく親が忙しい、この夏休み期間中に『最貧困女子』を読んだのもあります。以下、気になった箇所です。
P35
「でも、兄ちゃんと奥さんには、ギリギリまで頑張って、きちんとした姿を見せたいし。いまお金ができたから、あと2週間で結果出す。いまそう決めたばっかりで、頑張れるから、わたしは大丈夫です。不動産屋のおばちゃんにも、ちゃんと結果出して謝りに行きますから」
P58-59
「この手の根性焼きとかは、自分でやったんじゃないの。これ、親にやられたから。(中略)小5で養護施設に入った。ホッとした? う~ん、棄てられたって重た。なんか私、おかしいの。虐待じゃん? でも私、ママのこと嫌いじゃなかったんだよね。(以下略)」
P96
「ジャンケンができない少女」というのもいた。彼女は親によって指を手の甲側にへし折られ、何年経ってもいくつかの指を握りこむことができないのだ。「パーしか出せないから、チョキ出されたら100パー負けますね」
P174
「それで、あたしも落ち着いたんで、子供取り戻したいんですけど、会わせてもらえないんですよ。法律上はあたしの子供ですよね。(中略)実は弟がヤクザになっちゃったんですけど、それ持ち出されて『ヤクザの姪っ子になんかしたくない』とか言われて、もう力ずくでブン取ってきてやろうとか考えてるんですけど、この場合って誘拐になるのかな」
この本には、親から虐待を受けた子、親から受けた虐待と近いものを自分の子どもに遭わせる子が登場します。(成人していますが、自分には子どもに見えたので、"子"と表記しています。)
料理ができるには文化資本が必要なこと、子どもの学力は親の年収と相関があることなど、自分が目にする議論の中には、親の子どもへの影響が一つの重要な要素となるものをしばしば見かけます。
他人の子育てについてはそれは各家庭が考えるものであり、他人が四の五の言うものだと思いませんが、こういうものを目に触れるにつけ、自分が育てているこの子どもたちが、一人の自立した、楽しそうな大人になるために、親として何ができて、何をしないほうがいいのか、何かと考えたわけです。
今回書いた今のところの結論は至極当然ではあるものの、これで自分の中では一つ軸ができました。何かあれば、必要に応じて枝葉の修正しはつつ、気軽に適度に手を抜きつつ、真剣に、今後とも子育てを暇潰しとして楽しんでいければいいなと思います。