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 ■村崎節子さん(83)=貝塚市

 貝塚市の小高い丘に、築60年を超えた平屋建てがまばらに並ぶ。旧満州(中国東北部)などから引き揚げた人たちのために建てられた、近畿で唯一残る「引揚者(ひきあげしゃ)住宅」だ。かつては50戸あったが取り壊しが進み、今は5戸のみが残る。

 「地獄のような日でした」。ここに住む村崎節子さん(83)は、10代で経験した旧満州のハルビンからの引き揚げを振り返った。

 郷里の鹿児島から旧満州に6歳で渡った。父は陸軍関係で経理の仕事に就いていた。戦争が終わるまでの暮らしは悪くなかった。

 終戦の日。こわばった顔で帰宅した父が「荷物をまとめろ」と言った。慌てて同僚の家に行き、息を潜めて過ごした。「隣は青酸カリをのんだらしい」。大人たちの話が聞こえてきた。

 大学の寮だった3階建ての建物に移り、1部屋に4家族が身を寄せた。旧ソ連兵の略奪と暴行が始まり、出入り口に近い1階の女性たちが狙われた。村崎さんは3階にいた。「建物に反響して悲鳴と叫び声が聞こえるんです。銃声が鳴ることもあった」。大人の陰に隠れて身を硬くし、ただ耐え続けた。

 冬の寒さは厳しく、亡くなった小さな子もいた。近くの広場に、盛り土と粗末な板で作った墓碑が並んだ。「日本に帰りたい、帰りたい、帰りたい、そればっかり思ってました」

 終戦翌年の1946年9月、引き揚げ船で長崎の佐世保港にたどり着いた。鹿児島には仕事がなかった父は、貝塚市内の紡績工場に職を得て、府が51年に建てた引揚者住宅に入居した。

 家賃は月360円。6畳と3畳の部屋に小さな炊事場とトイレがある家に、父母と子どもの計7人が暮らした。住宅には電気も水道もなく、近所に井戸水をもらいに行った。「野宿もした引き揚げの苦労に比べれば、天井があるだけでありがたいことだった」

 結婚して一時離れたが、まもなく近くの引揚者住宅に空きが出たので戻り、2男1女を育てた。長男には障害があり、堺市内の学校まで12年間、送り迎えと付き添いを続けた。

 「破格の家賃」は据え置かれたが、自費で住宅に風呂を取り付け、増築した。近所同士で支え合うことも多かったが、「戦争や引き揚げの話はしなかった。みんな人に話したくないような苦労をしたし、その日の生活で一生懸命でした」…