2015年9月2日15時12分
■外山禎彦さん(80)=河内長野市
古びて薄茶色になったノートに力いっぱい書かれた鉛筆の文字。日付はほぼ一日も欠くことなく、出来事がつづられている。大阪市中央区の大阪国際平和センター(ピースおおさか)に所蔵された日記だ。
書いたのは河内長野市の外山禎彦(よしひこ)さん(80)。終戦当時は小学5年生だった。1944年9月から終戦後の45年10月までの約1年間、岸和田市の和泉葛城山のふもとの宿屋に集団疎開した時につづった。
44年7月。日本はサイパン島を米軍に占領され、都市部では学童疎開が始まった。大阪市住吉区に住んでいた外山さんも親元を離れることになった。
疎開先での日記は子どもらしい記述で始まる。
《九月二十八日 木曜日 晴
今日はおやつは栗であった。五つ、とてもおいしかった。それから紙の飛行機を作った。》
「友だちと同じ部屋に泊まって、まるで修学旅行のような、ちょっとわくわくした気持ちでしたね」
だがすぐに、先の見えない集団生活にストレスを感じた。「ケンカをしても、夜もそいつと同じ部屋で寝なければならない。思い切り泣くこともできず、気の休まる場所がなかった」
疎開先にも戦況悪化の波は押し寄せた。本土決戦に備え、授業よりも銃の持ち方や手旗信号のやり方を学ぶ時間が増えた。日記も殺伐とした内容になる。
《昭和二十年
二月九日 金曜日 晴 温度一度
朝会は雪が積もっていたのでなかった、(略)昼からの耐寒訓練はなかった、明日しけんがあるので勉強をした、風の吹きまくる雪の中を食器洗いに行くのはたいへんつらかった。》
薄着で我慢していたこともあって右足がかゆくなり、7日後の2月16日の欄には「足痛でねた」とだけ書かれている。その日から3月5日まで記述は途絶える。「右足の甲がひどい凍傷になって歩けず、床に伏せってしまったんです」
栄養状態も劣悪で、子どもたちは野草や魚などの食料確保も重要な仕事だった。
《四月三日 火曜日 晴
午前中はふき取りに行った、昼からまたつくし取りに行った、夕食にはふきとつくしのおかずであった、つくし取りがすんでからまたどじょうを取った、(略)》…
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