ちょっとしたことだけど、書くと難しいな。今日はビール飲んでるしな。まあいいや。
こないだ盆に墓参りにいったって書いたじゃないですか。あのとき母と帰りの車で話したんですよ。妹弟のこととか甥姪のこととか。それでわたし母に
「いま子供育ててる人みるとほんと大変だなと思う。自分が病気してても子供は熱出したり怪我したりするでしょ。ママはよくあの歳で親元離れて四人も育てたなと思うよ」
って言ったんですよ。
わたしは助手席にいて、母は後部座席にいたからお互い顔は見なくて、わたしはごく何気ない調子でよその人の話みたいに言ったんですけど、それはこれまで何度も思ったことで、いつか母に伝えておきたいと思ったことだったんです。考えれば考えるほど自分はこの人に恩があるなと。
そしたらそれまでテンポよく話していた母は一瞬ことばに詰まりました。
「・・・え、そうかしら」
「本も読んでもらったし、人形の服も作ってもらったし、いつも美味しい食事が出てきてさ。ありがたいことだったって思う」
産んでくれたこと、育ててくれたこと、どれも軽々しく扱えることではないといまは思う。わたしを産んだとき母は26歳で、40歳で離婚するまで14年間育ててくれたんですけどね、その歳で飲んだくれで荒くれものの、明日をも知れぬ自営業者の妻として、舅姑と敷地内同居しながら子供4人育てるってどんなにたいへんだろうといまは思うんですよ。犬もいたし。
「でもママは一度もそれを恩に着せたことがないでしょう。子供のせいであれができなかった、これもできなかった、家事と育児で自分の人生がなかったとか言ったことないでしょう」
うちの母は「そんなこと子供に言ったらダメだろ」ということを、もう相当言ってきました。ジャンルは多岐にわたり、いろいろなバリエーションがありましたが、よく考えたら子育ての愚痴だけは言ったことがなかった。
「そんなこと、なんでもないのよ。夫婦の仲さえ上手くいっていれば、子供を育てることほど楽しいことはないんだから」
母の声は震えていた。わたしは世間話口調を断固固守していたけど泣きたい気持ちだった。
「4人をぞろぞろ連れて、いろんなところへ行ったわね。あのころは・・・」
ちょっと前にTwitterで炎上したTweetがあったでしょう。
私は「毒親」風潮が嫌いだ。確かに自らが大切にされなかったから子どもに対しても、という人は存在する。でも親は単に発達障害なのに「親と縁を切れ」「「親は自分のトラウマを子どもにぶつけている」と言われて10年以上も親と縁を切っているのを見ると本当に悲しくなる。
— 水島広子 (@MizushimaHiroko) 2015, 1月 8
わたし、あのときね、これ見て言いたいことがわかるような気がしたんですよ。これ別に子供の立場にいる人にゆるしを強制しているんじゃなく、親子の関係性が変るチャンスを「毒親」っていうレッテルで潰さないでほしい、ということだろうと思った。
「毒になる親といるのは命の危険、絶縁こそ至上」っていう考え方あるじゃん。わたしあれにはちょっと慎重派なんだわ。
親の本心がどこにあっても、親の行為が子供にとって毒になることはある。それはどんなに愛していても感染症にかかっている人を隔離しなければならないことがあるのと似ていると思う。大好きでも、大嫌いでも、自分の身を守るため、共倒れしないために距離をおく必要がある事態はある。
でも毒親はゾンビみたいに、いちどなったら矯正不能というようなものではない。致死率の高い感染症だけど、寛解することもある。佐野洋子さんは痴呆症になった母を介護する過程で、自分の気持ちが変化していったことを書いている。
親子の関係性って変るでしょう。1歳と27歳、40歳と67歳の関係は同じじゃないじゃないですか。どんな風に変るかは双方の人生にどんな人が関わったかにもよりますよね。一律何歳になったら人間丸くなるから大丈夫だとか、一生トラウマにさいなまされた人がいるから万全を期して隔離すべきとか、外野が口を出す権利はない。
でも毒親ってレッテル貼ると、目指すは絶縁!って絶縁がある種のミッションになるじゃん。「この条件に当てはまったら毒親。毒親とは絶縁」は、「こういうことをしてくれる親はいい親。親には孝行」の裏返しで、結局人と人との個人的な関係を、個々の人生のありようを見失うものになるんじゃないのかな。いい親、悪い親という雑なくくりは、いい子と悪い子を雑にくくるようなものなんじゃないのかと思う。
いまのところ母はわたしに害を及ぼさない。母がわたしにしたことの影響はいまもあるけれど、母がそれを補償してくれなくてもわたしはなんとかやっていける。いま母と関わることができてよかった。母には返しきれない恩がある。
「よし、今日はこのことをブログに書こう」と思いながら、夕方、母に会いに行った。すると母が
「本当に世の中便利になったわねえ。あの戦後の何もない時代に、なに不自由なく育てていただいて、大学までいれていただいて。勝手に大学を辞めて、勝手に結婚して、勝手に離婚して。どんなに心配をかけたことかといまになって思うわ」
とフードプロセッサーの便利さについて語った後、静かにひとりごちていた。
母は長いこと自分が母親に愛されなかったことを嘆いていた。30代の終わりごろ、シナリオの勉強をはじめたが、テーマはいつも母親のことだった。泣いたり怒ったり嘲笑ったりしながら、母はずっとわたしの祖母を恨めしく思っていた。傍から見ていても祖母は「えええええ!」ということをやったし、母も「うわああああ!」ということをやっていた。
でもなんか、祖母が100歳を迎えた今年、母は祖母に素直な感謝を抱いているようだった。人生何があるかわからない。生きている間にこうういう場面を見ることができてありがたいことだと思ったよ。