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【戦時下のわが郷(くに)①】別府の「なるみ」

 終戦から70年。戦後生まれが8割を超え、戦争経験者が少なくなる中で、あらためて先の大戦を見つめ直し、記憶にとどめる夏にしたい。全国には悲惨な出来事や戦時下の暮らしにまつわる秘話などが数多く語り継がれている。東北から九州まで地方紙12社と連携し、各地の語り部たちを訪ねた。 

料亭に辞世の句残す

 「一撃必中」「やるぞ」「空に生き、空に死す」「太平洋上血の雨を降らしてかへる」―。
 書は温泉地・別府市にあった料亭「なるみ」で海軍士官や特攻隊員たちがしたためたものだ。なるみは旧日本海軍の御用達として知られ、多くの士官たちがひとときの休暇を楽しんだ。
 士官らの書は宇佐市の市民図書館などに保管されている。太平洋戦争中、同市にあった宇佐海軍航空隊の隊員もなるみを訪れていた。航空隊の調査、研究をする井上治広さん(64)=元市教委文化課職員=は「書には当時の戦況と心情がよく表れている」と語る。
 自らを鼓舞するかのような勇ましい言葉。殺気だった文字。中にはカエルの絵が描かれたものもある。「戦争末期、士官たちは特攻出撃して飛び立った。生きて帰りたいという願いを絵に描いて託したのかもしれません」
 書の一部は宇佐市平和資料館で展示されている。井上さんは「指揮官クラスの人たちの本音が垣間見える貴重な資料。多くの人に見てもらいたい」と話す。
 なるみは高岸源太郎が大正初めに創業した。源太郎の伝記を書き、息子の克郎と親交があった別府史談会理事の矢島嗣久さん(80)は説明する。「源太郎さんは福井県の出身だった。同郷で連合艦隊司令長官となった加藤寛治大将と出会い、知遇を得て、別府が海軍の休養指定地となったようです」。なるみは連合艦隊の将校の指定料亭となった。
 1941年12月8日、日本軍のハワイ真珠湾攻撃によって太平洋戦争が始まった。海軍幹部が帰国後、なるみで慰労会が開かれた。
 そこには南雲忠一司令長官、フォード島に第1弾となる爆弾を投下した高橋赫一少佐らがいた。源太郎の求めに応じて揮毫(きごう)した高橋は「必撃轟沈(ごうちん)」と記した。現在は名前の上に「故」の文字が記されており、料亭を訪れた人が後に書き加えたとされている。
 山本五十六連合艦隊司令長官ら歴史に名を残した多くの士官も訪れて書を残しており、その数は300枚以上に上る。戦況の悪化とともに特別攻撃隊が出撃するようになると「なるみは隊員たちの最後の慰安の場所となった」という。
 なるみを訪れた士官たちの多くは戦死し、書は辞世の句となった。矢島さんは「なるみは海軍将校や特攻隊員たちの鎮魂の場所でもあった。戦後なくなってしまったが、別府市民の心の中に今でも残っている」と話した。

 この企画は▽東奥日報▽岩手日報▽秋田魁新報▽山形新聞▽北日本新聞▽岐阜新聞▽福井新聞▽徳島新聞▽四国新聞▽愛媛新聞▽長崎新聞▽宮崎日日新聞―と連携してお届けします。
※この記事は、8月21日大分合同新聞夕刊11ページに掲載されています。

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