悲劇!
俺が両の手を柔らかく柔らかく握りこみゆっくりとキリモミ回転をしながらこの世界にポコリと頭から飛び出しオギャーと叫んだその瞬間!
その瞬間から俺は、世界の中心は俺だと頭から信じ込んでいた!
「母ちゃん産んでくれてありがとう!」
そう思わない気持ちも無いではなかったが、それ以上に俺が俺の世界の中心であることを確認しようと俺は毎日大忙しでそれどころではなかったのだ!
俺は果たして世界の中心であるか凪いだ水面に疑問符を投げかけ続ける毎日、それはつまり自分が特別であることを確認しようとする毎日だ。特別になりたい特別になりたい特別になりたいと呪いのように祈り続けた十代二十代を駆け抜けて俺は毎日蹴っ躓いて泥だらけ、膝小僧は傷だらけどころか擦り切れすぎて半月板がまる見えでなんならそこに芋判が彫れる。
そうしてボロボロになってやっとこさ辿り着いた境地。
「ああ、別に特別じゃなくてもいいんだ、普通でいいんだ」
来た来た来た来た遂に来た、普通のおっさんがよく言ってたやつだ!
ああ、俺も遂にかつて普通のおっさんが普通に良い話風に語っていた普通のことを普通に思えるようになったんだ!
救われ全てが報われた、今の俺ならハッキリと言える気がする。
「母ちゃん産んでくれてありがとう!」
ところがどっこい、そうは問屋が卸さない。今度は普通がわからない。
そもそも普通ってどういうことなのよ?
びっくりドンキーだったら200gが普通だから分かりやすいけど、俺の普通って一体全体なんなのよ?
自分探しの旅はまだまだ続く、ごめんよ母ちゃん、ありがとうはもう少し先になりそうだ。
先日、美容院をば訪ねまして「よう、兄ちゃん、一つ俺の頭を男前にしてやくれねえか?」「任せてください旦那、カットのみでようござんしたか?」「ああ、そうだなぁ、俺はずいぶん髪質が頑丈なもんで、カットだけじゃあ髪のカスがチクチクと首周りに纏わりついてどうもいけねえ、ここはひとつシャンプーも頼むよ」「かしこまりやした、じゃあまずカットの方から進めさせていただきやす、チョキチョキチョキ……」「何やってんだい、お前さんは!扇子で髪を切れるわけないじゃないか」「いや、旦那、これは見立てと言いまして」「わかってるんだよ、そんなことは!そうじゃなくて普通に髪を切ってくれって言ってるんだよ俺ぁ」と美容師さんと話していると、隣の若い学生さんも同じようなことを言っている。
「普通の感じで切ってください」
そもそも普通ってどういうことなのよ?
隣の美容師さんはこっちとは違って普通の人で、色々な髪型が掲載されたカタログ本を片手にひとつひとつ丁寧に学生さんに質問をしていく。
「サイドは刈り上げないくらいでいいですか?」
「トップはワックスで遊べるくらいにしましょうか?」
「前髪どれくらい残しましょう?」
そしたらその学生さん、時にはそのまま首肯して時にはもっと注文つけてなんだかんだと話が進んでく。なんだい、実は色々あったんじゃないか、普通の感じなんて一口に言いながら実のところアレコレああしたいこうしたいなんてこだわりがあったんじゃないか。
そうして出来上がった髪型は至って普通の髪型だったが、学生さんはずいぶん満足そうだった。
拝啓、ランちゃん、スーちゃん、ミキちゃん、みんな普通の女の子に戻れましたか?
ぶっちゃけ僕は普通の女の子は水谷豊と結婚しねえだろと思っていましたが、きっとそういうことではないんですね。誰かに用意された衣裳を着て、台本どおりの台詞を喋り、扇子で髪を切られる演技をするんじゃなくて、微笑がえしでお別れしたら、自分で着たい服を着て、思った言葉を口にして、自分の髪型を自分で考えて、自分で選んだ人の隣で笑う。それがきっと普通ってことなんですね。
「そういうわけで俺もアンドゥトロワで普通のおじさんになりてえんだ、お前さんここはひとつ協力しちゃあくれめえか?」「お安い御用です、旦那、まずはこちらをご覧くだせえ」「なんだい、こいつぁ。ただの手ぬぐいじゃねえか」「違いますよ旦那、こいつは普通の生き方カタログと申しまして、ここにはあらゆる普通の生き方が記されておりやす。この中から一つ、旦那が自分の意思で生き方を選んで頂けりゃ旦那もそれで晴れて普通のおじさんでございやす」「しかしおめえ、こいつぁ結構な分厚さだぜ、この中からたった一つを選ぶとなるとずいぶん骨が折れそうだ」「こいつがあと107冊ございやす」「うひゃあ、そんなにあるのかい?」「へい、昔はこんなこたぁなかったんですがね、最近じゃあ無闇に人の生き方を特別扱いするもんじゃねえって風潮なもんで、あらゆる人間の生き方を収録してたら気付けばこんなボリュームに」「するってえとお前さん、この中にはおいらの生き方もとっくに収録されてるってこたあ、あるめえな?」「さあ、あるかもしれないし、ないかもしれやせん」「ふうむ、この中から俺の生き方を見つけることができりゃあ俺はとっくの昔に普通のおじさんっていうわけか。どのみちこいつぁ骨が折れる作業には違いあるめえ、結論が出るのはずいぶん先になっちまうな。それなら先に言っておくか、母ちゃん産んでくれてありがとよ!」