【SEALDs】若者のデモはメディアの消耗品【古谷経衡】
WiLL 8月31日(月)12時32分配信
「裸の王様」は、世界的に有名なアンデルセン童話だ。とある国の王様に二人の詐欺師が近づいてくる。「王様、この着物は愚か者には見えない特別の布でございます」。詐欺師の甘言にまんまと乗せられた王様は、裸のまま城下をパレードする。群衆は馬鹿であることを悟られぬよう、本当は存在しない王の着衣を賞賛する。王も同様に誇る。
するとそこに一人の子供が現れ、「王様は裸だ!」と叫ぶ。無垢な子供が嘘を言うはずはない。詐欺師は死刑になる──。「裸の王様」という寓話には、無垢なる者が指摘することこそが真実である、という世界観が根底にある。
無垢なる者には利害関係が存在しておらず、なまじ知識による色眼鏡を持たないため、無垢なる者の放つ言葉には真実が含有されている、というのがこのお話の骨子だ。
もうお気づきだと思うが、「SEALDs」や「ふるえる」デモの学生たちは「裸の王様」でいうところの、王が裸であると告げる子供の役であり、「裸である王」の役が安倍総理である。
彼らが二十歳そこそこの社会経験をほとんど有さず、また専門的で体系的な知識も有さない「無垢なる」存在であるからこそ、彼らの放つ「反安倍」「反安保法制」という言葉には真実が含まれている、と周囲の大人は意識的にも無意識的にも考えてしまう。
ならば、「安倍が裸だ」と指摘するのは、イデオロギーに汚染された高齢者よりも、無垢な「子供」のほうが明らかに好都合であろう。
若者だけで構成される組織が「反安倍」「反安保法制」を叫べば、それらは「王様は裸である」と叫ぶ子供の如きものであり、「反安倍」「反安保法制」という自分たちの主張の方向性は正しいのであるということの担保にするため、その動向に殺到するのだ。
主張の貧弱性、幼稚性を度外視して、「SEALDs」や「ふるえる」デモを「若者である」「ギャルである」というだけで、既存の大手マスメディアが取り上げる最大の理由はこれだ。
だからこそ、反安倍や反安保法制を叫ぶのは、イデオロギーや組織内序列に汚染された年配者では不適格なのである。

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