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網地島の宝 5年目の被災地から(1)

(2015年8月28日) 【中日新聞】【朝刊】【その他】 この記事を印刷する

不便さが生んだ奇跡

 夏の盛り。白い断崖に満開のハマユリがオレンジの色を添えていた。

 宮城県石巻市沖に浮かぶ網地(あじ)島の最南端、涛波岐崎(どわめきざき)。2011年3月の東日本大震災の震源から107キロ。有人島では最も近いが、太平洋に突き出たこの岬が船のへさきの役を果たし、津波を二分した。浸水と地盤沈下で港湾施設や周辺民家が被害を受けたが、死傷者はなし。今も語り継がれる奇跡だ。

 もう一つの奇跡が、島民たちの団結だった。当時の人口約480人、65歳以上が人口の7割を占める島で、2週間近く完全に停電。その後2カ月も1日のほぼ半分、電気が来なかった。水道は66日間の完全断水。定期船は10日間完全停止。市役所の支所も、消防署や交番もコンビニもない。そんな中、住民自治で危機を乗り切った。

画像井戸水をくみ上げたポンプを手に震災当時を語る水越研二さん=宮城県石巻市の網地島で

 「これが大活躍したんだ」。海水浴場近くでペンション「晴耕雨読」を経営する水越研二さん(64)は、加圧式ポンプや発電機を見やった。宿泊棟など6棟を自力で建てた経験があり、震災直後から島民の中心になった。敷地内の井戸からポンプで水をくみ、消防団のタンク車に注いで、老人保健施設のふろやトイレ用に毎日運んだ。発電機で明かりをともし、民宿のふろをまきでわかして、近所の人たちに提供した。避難所の簡易トイレも造った。

 避難所での炊き出しでは、島の女性たちが家の食べ物を持ち寄った。「冬場は船がよく止まるから、どこの家にも蓄えがあるし、お裾分けは昔から当たり前。不便さには、もともと慣れているからね」と、当時、行政区長だった小野喜代男さん(77)。

 行商の業者が被災して廃業したが、代わって島の婦人会が「青空復興市」を震災3カ月後に始めた。食品、日用品など約180品目の注文を取り、まとめて船で取り寄せ、公民館で毎週配る。体が不自由な高齢者には、会員が配達する。発案した会長の小野寺たつえさん(71)は、現役の海女さんで、民謡歌手。島内外で歌謡教室も主宰し多忙だが、注文の集計など手間のかかる作業を続けている。

 実は、震災2カ月後の5月10日。島民たちは対策会議を開き、飲料水以外の支援物資の辞退を決議していた。気骨ある「自立宣言」だった。

 かつて漁業で栄え、「宝の島」と民謡にうたわれた網地島。震災は人口減と高齢化を一段と加速させているが、超過疎地の重苦しさは感じられない。現代社会が失った“宝物”を、この島に探してみた。(この連載は、安藤明夫が担当します)

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網地島=石巻市

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