選考コンペに応募したデザイン関係者が告発!「(五輪エンブレムは)佐野氏ありきの選考だった」 |
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☆取材に応じたデザイン関係者は、当初から五輪エンブレムのコンペが、通常と違うと感じていたと話す。
URL http://www.nikkansports.com/general/news/1532035.html
引用:
「通常なら、選ばれなかった側にも『こういうデザインに決まったが、引き続き協力をお願いしたい』という連絡くらいある。しかし今回、組織委員会からの連絡は全くなかった」という。「応募したほかの103人のデザイナーに、最低限の礼儀もなかった。修正してまで、佐野氏のデザインに決めた。その段階で、佐野氏と我々は平等ではないと思った」と振り返り、「佐野氏ありき」のコンペだったとの見方を示した。
:引用終了
以下、ネットの反応
コンペ応募者に不信感「佐野氏ありきの選考だった」 http://t.co/fRip8xNu6h @nikkansportsさんから
日刊スポーツがいい仕事してる今日この頃。
佐野氏を最初から選ぶつもりだったんじゃないの? は、他のデザインわかんないこと含めて大きい疑惑だよなあ。
— 織部ゆたか (@iiduna_yutaka) 2015, 9月 2
(RT)結果的に、正統性粉飾のためだけに参加させられた103人のデザイナーが浮かばれない。その考えが違うというなら、次点のデザインを発表してみたらどうか。http://t.co/8N6vT0003y
— 竹内正浩 (@takeuchmasahiro) 2015, 9月 2
そりゃそうだ。選考委員会の選考の公正性もきちんと検証したいところ。
コンペ応募者に不信感「佐野氏ありきの選考だった」 http://t.co/7A3IYoBTpZ @nikkansportsさんから
— 弁護士大西洋一 (@o2441) 2015, 9月 2
応募条件:組織委指定のデザインコンテストを複数受賞
審査委員会:非公開
なぜ応募者を絞って、選考過程を非公開に?
#nhk
コンペ応募者に不信感「佐野氏ありきの選考だった」 http://t.co/egMEobqV1Q pic.twitter.com/eUvmom5L5K
— きやすめ。 (@ZeroE13A1) 2015, 9月 2
「本来デザインは、コンセプトやストーリーを考えて決めるべきだ。今回は今後の展開も含めて、お金になりやすい、お金を生みやすいものが選ばれた」 まさしく、これにつきる。金満日本http://t.co/tzOWuMeV4M
— onodekita (@onodekita) 2015, 9月 2
「ネット時代へのコンプアライアンスと警戒心がゼロなのは広告代理店」
という事象が次々と出てくるなぁ
テレビがそれで酷い目にあってるのを目の当たりにしてるのになw
コンペ応募者に不信感「佐野氏ありきの選考だった」 http://t.co/nVhFyqTCDW
— こば@ジェミニのサガっ子クラブ (@koba200x1) 2015, 9月 2
コンペ応募者に不信感「佐野氏ありきの選考だった」 http://t.co/RWJZYtTQ2A
私たちも、同じ不信感を抱いていました。
「亀倉さんは今ごろ泣いているのではないか」・・・そう思います。
— 下駄ちゃん (@geta_chan) 2015, 9月 2
公募のコンペとしては不正そのもの。この選考過程に疑問を抱かないマスコミ、広告関係者は、感覚がマヒしているとしかいいようがありませんね。
コンペ応募者に不信感「佐野氏ありきの選考だった」 http://t.co/Aj6JcizRJe @nikkansportsさんから
— 宮川 章 (@miyagawa17) 2015, 9月 2
【速報】談合疑惑のエンブレム審査委員会が説明責任を果たさないまま全員逃亡 | netgeek http://t.co/3at4JORd6F pic.twitter.com/sxDjwPeq1C
— netgeek (@netgeek_0915) 2015, 9月 2
こんなボロボロの人を必死に守ってきた審査委員と組織委員。佐野研二郎の五輪エンブレムの中止だけでなく、組織ぐるみの癒着と疑惑を真相解明しないと国民は納得しないです。すでに税金いっぱい無駄にしたんだから当然、損害賠償も。当然、刑事告訴も。 pic.twitter.com/dRrnoFuDNG
— 中山幹夫 (@nakayamamikio) 2015, 9月 1
「やっぱり」という感じです。佐野研二郎氏は森元首相の親族の方と交流があるようですし、前のロゴの審査時に審査委員もやっていました。
肝心の審査委員の方達も大半がコメントすら拒否している状態で、更に疑惑を強めています。未だに佐野研二郎氏を必死になって擁護しているデザイナーとかが居ますが、こうなった以上は徹底的に追求されることになるでしょう。是非とも他の関係者も東京五輪エンブレムの裏事情をドンドン暴露して欲しいところです。
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火に油ほりこむなよ
安保法制ネタの火消し役か
こんな世の中なのか?
アンダーコントロールの安倍晋三が、コンナダモノ。
安倍晋三まだ?
103人の作品は無残にも闇に葬り去られました。
この際、歯がゆいから落選の皆様、ネットで出展してみてください。
そうすれば、民衆が選んでくれることとなるでしょう。
それがいいですね。誰か企画してみてくださいませんか?
私では力量不足でできません。
司忍(山口組組長)と田中英壽(JOC副会長)のツーショット写真が話題に
http://matome.naver.jp/odai/2141683135593457901
ベルギーには頑張ってもらって、追及しまくってデザイナー界から追放してください
森も安倍も追放だな、北極にでも移住してくれ
貼り
http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-3787.html?sp
http://matome.naver.jp/odai/2144119230787002801
審査委員長の永井氏は佐野氏が博報堂時代に師事し、今は同じ多摩美術大学教授である永井一史氏の父親。
また、電通の高崎卓馬氏は佐野氏と「サントリーオールフリー」の広告を一緒に作っているビジネスパートナー。
長嶋りかこ氏も博…”
“審査委員にはもうひとり、説明責任が求められる人物がいる。
それは、東京五輪に招致活動から関わり、現在も京五輪に招致活動から関わり、現在も組織委員会クリエイティブ・ディレクターの肩書きをもつ電通の高崎卓馬氏だ。
高崎氏は前述したように、サントリーオールフリーのクリエイティブ・ディレクターでもあり、問題になったトートバッ…
炎上!炎上!!
と思ったが、これの出自も知らないとな。
類は友を呼ぶ。これ程見事なものは見たことない。
責任感も、何も無い。
世界中に深刻なことが出回る日も近いカモ
身から出たサビという物が。
すでに無償で配布しているので、今更『有償』にすることが困難な為と
IOCを筆頭に巨額のエンブレム使用料金の為に、どうしても新しいエンブレムが
必要なんだそうな。
『汚染水は完全にコントロールされている!』
という事にして誘致した、
『国の最高責任者』
が責任取って辞任するべきなのでは?
嘘つきの周りには嘘つきしか居ないんだから、これからだって嘘つき集団が何もやらかさないはず無いし。
無駄な損害山ほど出して、消費税を上げてまで充当されたら、もうたまんないよ!
消費税を上げても法人税を下げてるから国の税収が大して増えてないと予想してる。だから更に消費税は上げるはず。企業優先なので庶民は辛いです。政府と経団連と新自由主義者などを何とかせねば。
さすが無能首相のお友達。
反吐が出る。
海外の発案者から「意味が正反対」とクレームを付けられてる。
「美しい国」のパクリ疑惑と共にゼロベースで白紙撤回?
芸術やセンスにかかわる事をちんどん屋に丸投げした事が、この事態を招いたんだ。
如何に、大店なったとは言え「ちんどん屋」そのポリシィは只、金儲けでしかない。
何でも銭で買えて、銭で箔が付くと思っている。政治屋たちと同じ穴の住人だ。
「身内称賛システム」を作って、何でも自分たちの思い通りに出来ると思い込んでいた。
某氏も、せっかくの、芸術センスをちんどん屋の「客寄せ招き書き」で浪費してしまった。
気の毒だが、他に最低限、身に付けて於かなければいけない物が有ったと云う事では?
【近代日本の礎となった政治家 大久保利通】 毛利敏彦 (p212~p215全文)
『強固な意志の人』
すべて歴史上の大変革がそうであったように、近代日本の幕開けとなった明治維新もまた、華麗なロマンと冷厳な現実とが交錯する一大ドラマであった。そして、維新のロマン、つまり英雄的、叙情詩的側面を象徴する人物が西郷隆盛であったとすれば、維新の現実的、叙事詩的側面を代表したのは大久保利通であった。
大久保は、明治維新政治史において、二つの偉大な役割を果たした。一つは、江戸幕府の最大の敵となった薩摩藩を倒幕の方向にまとめあげたことであり、もう一つは、幼弱な明治政府の基礎を固め、守り抜いたことである。
かれは、強固な意志力と実行力に恵まれた希有の人物であった。反面、将来への見通しや構想力の面では、いささか貧困であったのは否めない。しかし、いったん、こうと目的を定めると、その実現へ向けて恐ろしいほどの集中力と粘りを発揮し、あらゆる手段を尽くして目的実現に没頭した。このような大久保の個性は、明治維新の過程と結果に深く刻み込まれている。
大久保は、天保元年(1830)八月十日、薩摩国鹿児島城下の下級藩士の家に生まれた。奇しくも、吉田松陰と同年同月生まれである。竹馬の友の西郷隆盛は三歳年長であった。
大久保が十五歳になった弘化元年(1844)、薩摩藩に重大事件が突発した。薩摩支配下の琉球(沖縄)にフランス軍艦が来航し、開国と通商を求めたのである。それは、鎖国日本に一大衝撃をもたらした九年後のペリー来航の事実上の前ぶれであった。この事件を通じて、薩摩藩は、幕府や諸藩より一足早く十九世紀のきびしい世界情勢に直面したのである。
この事件は、大久保個人の生活にも大きく影響した。事件への対応をめぐって藩内に深刻な政争が発生し、改革派に属していた父大久保利世(としよ)は、藩庁主流に対立して、遠島処分の憂き目にあったのである。大久保家の生活はどん底に墜ち、若い大久保は、一家を支えて苦闘しなければならなかった。この経験が、大久保固有の粘り強さ、負けん気、慎重さなどの性格を鍛えたといわれる。そして、失意の大久保の心の支えとなったのは、親友西郷の変わらぬ励ましであった。
『島津久光との出会い』
やがて、ペリー来航をきっかけに、ついに江戸幕府は開国に踏み切り、日本は否応なく弱肉強食の国際政治の渦中に引き入れられた。ここに、幕末激動期の幕が切って落とされた。薩摩藩の政情も変化して、利世は赦免され、ようやく大久保の前途も明るくなってきた。
開国後の社会の激変は、幕政批判の声を高めたが、大老井伊直弼は、「安政の大獄」でもってむくいた。それは、火に油を注ぐ結果となり、尊皇攘夷運動を燃え上がらせた。薩摩藩の青年武士のなかにも、西郷、大久保をリーダーとする尊攘のグループが生まれたが、西郷は安政の大獄のあおりをくって奄美大島への潜居を余儀なくされた。焦った同志たちは、前後の見境もなく、井伊を襲撃せよといきりたった。
しかし、大久保は冷静であった。かれは、激情にかられた一過性の直接行動の限界に気づいていた。そして、幕政=国政に影響を及ぼすためには、まず薩摩藩自体を動かさなければならないと考えた。そこで着目したのは、藩主島津茂久(もちひさ)の実父で藩政実力者の島津久光であった。しかし、大久保と久光とでは身分上の隔たりが大きすぎ、容易に接近できる関係ではなかった。
ここで、いかにも大久保らしい粘り強い努力が発揮されたのである。かれは、同志の暴発を懸命に食い止めながら、久光への接触の糸口を探した。そして、久光が碁好きであり、城下吉祥院の住職乗願(じょうがん)の指導を受けていることをさぐりあてると、大久保は乗願の囲碁の弟子となった。このまわりくどいやり方に、なにがなんでも久光とのつながりをつけねばならないという大久保の執念が表れている。
大久保と親しくなった乗願は、ある日、久光が国学者平田篤胤が著した『古志伝(こしでん)』を読みたがっているとの耳よりの話をもたらした。大久保はこの機会を逃さなかった。かれはこの本を探し出し、乗願を経由して久光に届けた。そして、本のなかに時局への意見や同志の氏名を記した紙片を密かにはさみこんでおいた。これを機会に、久光は、しだいに大久保やその仲間たちの言動に注目するようになった。
このように布石を打ったうえで、大久保は、暴発寸前の同志のエネルギーを、久光への圧力と取引の材料に使った。つまり、暴発近しを久光ににおわせ、その抑止の代償として、自分たちの主張の藩政への反映を求めたのである。一方、久光は、藩内での発言力拡大を図って、活力あふれる大久保ら下士団を自己の支配下に組み入れたいと望んだ。ここに、両者の利害は一致し、久光と大久保の提携が実現したのである。
大久保が久光に着目してから提携の実現まで一年半かかっている。ここに、いったん目標を定めたら倦むことなく目標に向かって粘り強く手段を尽くすという大久保の行動様式がよく表れている。それは、大久保の政治的生涯を通じての特色であった。
なお政治に全身全霊を投入した大久保は、ほとんど趣味らしい趣味と無縁であり、囲碁が唯一の例外であった。ところがその囲碁修得自体が若き日の政治的目的の副産物であったのである。
久光の知遇を得た大久保は、水を得た魚のように頭角を現し、久光側近として藩内の地歩を固めていった。やがて、文久二年(1862)には、久光を擁して公武合体運動に着手し、いよいよ中央政局に乗り出した。それは、開国以後しだいに鮮明になってきた「公」(京都朝廷)と「武」(江戸幕府)との対立を薩摩藩の手で調整して挙国体制を生み出そうとする野心的な試みであった。この過程で、薩摩藩のやり手大久保の名は天下に知られるようになった。
しかし、外様薩摩藩の中央政局介入は幕府の反発を招き、幕薩関係を悪化させた。そこで、久光は運動から手を引いたが、すでに大久保は一本立ちしていた。かれは、旧友西郷隆盛と手を組み、薩摩藩を倒幕の方向にまとめ上げた。そして、西郷は長州藩との同盟を実現した。こうして、西郷と大久保の絶妙のコンビは斜陽の幕府を政治的に追い詰め、ついに、大政奉還、王政復古となったのである。大久保の粘り強さと集中力が大いに寄与したのはいうまでもない。
『新国家形成への苦闘』
こうして、京都に明治新政府が誕生し、三十八歳の大久保は参与(さんよ)に就任した。しかし、政府の実態は、大久保と岩倉具視の提携を軸とする倒幕派藩士と王政復古公卿(くぎょう)の寄り合い所帯にすぎなかった。政府とはいえ、町内会に毛が生えた程度で、固有の行政組織も軍事力もなく、財政基盤も貧弱で、いつ潰れてもおかしくないお粗末な代物であった。俄(にわか)づくりの政府首脳たちは政権確保に自信をもてず、前途に悲観的であった。大久保も、「皇国の事、すべて瓦解土崩(どほう)、大御変革も尽(ことごと)く水泡画餅(がべい)」と、不安を記している。しかし、大久保は、動揺する岩倉らを叱咤激励し、不退転の決意で、新政府の創出と維持に全力を投入した。かれの強固な意志の力が欠けていたならば、維新は腰くだけに終わったかもしれない。
大久保が渾身の力で新政府をもちこたえているうちに、情勢は好転してきた。なによりも、新政府は天皇権威という無類の資産を擁していたし、時の勢いにも乗っていた。そこで、当初は薩長など倒幕派諸藩にのみ依拠していたが、立ち上がりの鳥羽・伏見戦争を辛(かろ)うじて乗り切ると、日和見(ひよりみ)していた西日本の諸藩は、バスに乗り遅れまいと、なだれをうって新政府の側についた。京、大阪の大商人たちも政府に献金して忠誠を示した。
ここに大勢は決し、観念した徳川慶喜は江戸城を明け渡して新政府の軍門に降(くだ)った。旧幕府側の拙劣な対応に助けられたとはいえ、もし大久保という強烈な個性が存在していなかったならば、明治政府は発育不全のまま野垂れ死にしたかもしれない。
こうして、新政府の権威と指導性は確立したが、諸藩は依然として半独立の体制を残していた。国家統一のためには廃藩が不可避の課題であったが、諸藩の抵抗が新政府の命取りになるおそれもあった。そこで、またもや大久保は、郷里鹿児島で藩政改革にあたっていた旧友西郷隆盛の助けを借りることにしたのである。
大久保の懇望(こんもう)を容(い)れた西郷は、手塩にかけて育て上げた精鋭の鹿児島軍団を率いて政府に入った。ここに、政府の威力は格段に高まったので、明治四年(1871)七月、廃藩置県が断行され、明治政府は日本全土の直接統治にこぎつけた。
幕末の場合と同じく、廃藩置県においても、西郷と大久保のコンビは絶大な力を発揮した。維新変革のドラマには、天皇・将軍から庶民にいたるまで有名無名の多数の人物が登場したが、西郷と大久保は文字どおり主役であった。そして、長い日本の歴史において、これほどの大仕事を遂行した名コンビは稀(まれ)なのではなかろうか。ところが、二年後に両者は悲劇的な対立と決別の運命に見舞われるのである。
前途に、そのような運命が待ち受けているとも知らず、大蔵卿になった大久保は、その年十一月、右大臣(副首相)岩倉具視を大使とする使節団の副使として、米欧各国歴訪に出かけた。明治新政府の発足を各国に伝えるとともに、条約改正への瀬踏みと西洋文明の調査を目的とした旅であった。
『明治六年政変(その一)』
大久保が岩倉大使より一足早く帰国したのは、明治六年(1875)五月であったが、半年後の十月二十三日、ただ一人の陸軍大将で筆頭参議の西郷隆盛が、病気を理由に辞表を提出し、翌二十四日、参議を解任された。同じく二十四日、参議の板垣退助、江藤新平(えとうしんぺい)、後藤象二郎、副島種臣の四人も、西郷に一日遅れて、いっせいに辞表を提出した。ここに、政府首脳は真っ二つに分裂し、半数が野に下るという大事件となった。
いわゆる「明治六年政変」であるが、従来、この事件は征韓論政変とも呼ばれ、征韓論の西郷派と非征韓論の大久保派の衝突が原因で生じた事件とみなされてきた。さらに、西郷が征韓を主張したのは、国権拡張を期すとともに、不平士族の不満を外にそらし、かつ没落士族の活路を求めたからであり、一方、大久保は、欧米先進国を視察して内治優先を痛感し、私情を超えて開戦のおそれがある西郷の主張に反対せざるを得なかった。そして、閣議で征韓論が敗れたので、西郷派はいっせいに下野した云々(うんぬん)、というのが通説である。
ところが、先入観を去って関係史料をよく調べてみると、この通説の根拠は意外にあやふやなのである。西郷が閣議などの公式の場で征韓を主張したとの記録は皆無であり、かれが士族のために征韓を図ったと直接に証明できる証拠もない。また、朝鮮問題に対する西郷の議論が閣議で否認された事実はないのみか、むしろ、閣議で孤立し辞表を提出したのは大久保のほうであった。征韓論政変説というのは史実と食い違う誤謬に満ちた俗説である。
では、なぜ大久保は生涯の親友で無二の同志であった西郷と対立し、政府の大分裂まで引き起こしたのであろうか。その謎を解くために、政変の経過を簡単にたどってみよう。
『明治六年政変(その二)』
大久保帰国前後の明治六年初夏のころ、隣国朝鮮との間に厄介な問題が発生した。そもそも、江戸時代には日朝間に友好関係が存続していたが、江戸幕府の倒壊とともにその関係が途切れ、明治政府は朝鮮との国交再開をもくろんだものの、両国の思惑(おもわく)が食い違ってうまくいかず、外交上の重要懸案となっていた。そのようなときに、朝鮮国釜山(ふざん)所在の日本側出先機関が朝鮮現地の官憲に侮辱(ぶじょく)されるという不幸なトラブルが発生したのである。
事態を重大視した外務省は閣議に問題をもち込んだ。強硬派の参議板垣退助(いたがきたいすけ)は現地に軍隊を急派せよと主張したが、西郷は反対した。西郷の意見は、派兵は開戦の危険をもたらすからよくない、それよりも全権の使節を派遣して公明正大に談判すべきだというものであった。そして、みずから使節を引き受けたいと申し出た。そこで、太政大臣(首相)三條実美(さんじょうさねとみ)は、使節は護衛兵を連れて軍艦で行くのがよいと論じたが、西郷はこれにも反論し、交渉をうまくまとめるためには相手を信頼して非武装で礼儀正しく使節を送らねばならないと強調した。
結局、閣議は西郷の主張の線でまとまり、西郷使節の朝鮮派遣を内定したが、なお正式決定は(各国歴訪中の)岩倉帰国後とされた。ここで注意しておきたいのは、西郷の立場が、征韓論(せいかんろん)とまったく正反対の平和的道義的交渉論だったことである。むしろ、板垣や三條が征韓論に近かったといえよう。
『明治六年政変(その三)』
さて、岩倉大使一行が一年十ヶ月ぶりに帰国したのは、この年九月十三日であった。そのころ、一足先に帰国していた大久保は、夏期休暇をとって神戸の有馬(ありま)温泉に湯治に出かけていた。俗説では、大久保が征韓論に対抗するために同志岩倉の帰国を手ぐすねひいて待ち受けていたことになっているが、実際はそうでなく、のんびり湯治に行っていたのである。
久しぶりに右大臣岩倉を迎えた三條は、たまっていた政務の扱いを相談し、協力して処理を急ぐことになった。三條の指導力が弱かったので、岩倉の留守中に各参議や各省が勝手に活動しがちだったため、政務が混乱していたのである。そのようなわけで、懸案の西郷使節朝鮮派遣の正式決定がずるずると遅れ、棚上げ同然となっていた。
しびれを切らせた西郷は、三條の怠慢をきびしく責めた。ここに不幸な行き違いが生じた。お上品な上級公卿(くげ)育ちの三條は小心で優柔不断な人物だったといわれている。三條は西郷の抗議にすっかり動転(どうてん)し、自分の不手際を忘れて、西郷が朝鮮と戦争をしたがっていると信じて真剣に悩んだ。これは、三條のまったくの誤解であった。
自分が勝手に呼び起こした戦争の亡霊に悩んだ三條と岩倉は、湯治から帰京してきた大久保に、参議に就任して助力してくれるように頼み込んだ。しかし、大久保は三週間にわたって固辞(こじ)した。俗説がいうように、大久保が内治優先と反征韓論の使命感に燃えていたのであれば、この固辞について説明できないであろう。
大久保が参議就任を固く断ったのは、実は旧主島津久光(しまづひさみつ)との複雑な関係のためであった。久光は廃藩を行った政府を恨(うら)んでいた。もし大久保が参議を引き受ければ、久光からの攻撃の矢面(やおもて)に立たされるおそれがあった。それは、大久保には耐(た)え難(がた)いことであった。
しかし、三條と岩倉の度重なる懇願に、とうとう大久保も断りきれなくなり、参議就任を受諾した。ただし、閣議で朝鮮使節派遣の延期を主張してみるが、それは本心からではなく、三條と岩倉に頼まれたからであること、したがって、中途で変説して二階に上げておいて梯子(はしご)をはずすようなことは絶対にしてもらいたくない、ときびしく念を押したのである。
『明治六年政変(その四)』
十月十四、十五両日の閣議に西郷使節の朝鮮派遣問題がかけられた。大久保は、三條と岩倉から頼まれたとおりに、使節派遣は戦争を引き起こすかもしれないから延期せよと発言した。一方、西郷は、日朝国交正常化のために平和的道義的な使節派遣の必要性を力説した。両者の議論の優劣はだれの目にも明らかであり、大勢は西郷を支持したので大久保は孤立した。
これをみて、三條と岩倉は、あれほど固く大久保と約束したにもかかわらず、中途で変説して西郷派遣論に同調した。大久保もやむをえず大勢に従った。ここに、西郷派遣は満場一致(まんじょういっち)で正式の閣議決定となった。西郷が征韓論で閣議に敗れたという俗説は、見当違いもはなはだしいのである。
ここで、大久保が冷静(れいせい)な態度を保持していたならば、政局に波乱が生ずることもなく、西郷使節の朝鮮派遣が実現し、多分、日朝国交がうまくまとまって、東アジアの平和が促進(そくしん)されたであろう。国内の士族反乱や自由民権運動もあれほど激化せず、日本の立憲政治も、もっとスムーズに実施に移されたのではなかろうか。
しかし、現実はそうでなかった。三條と岩倉の不誠意と手ひどい裏切(うらぎ)りでピエロにされたと激怒(げきど)した大久保は、三條宅におしかけて辞表をたたきつけた。事態を甘くみていた三條は一大ショックを受けたにちがいない。幕末以来大久保と深いつながりがあった岩倉も、大久保の予想外の怒(いか)りを知ってあわてた。岩倉も辞意を表明した。
相棒岩倉の態度が急変したので、小心な三條は懊悩(おうのう)のあまり、高熱を発(はっ)して卒倒(そっとう)してしまい、執務不能に陥(おちい)った。政局は大混乱状態となった。
ここに登場したのが、長州派の策士(さくし)伊藤博文(いとうひろぶみ)である。かれは、かねてから、初代司法卿(しほうきょう)の参議江藤新平(えとうしんぺい)による長州派の同僚山県有朋(やまがたありとも)や井上馨(いのうえかおる)の汚職摘発(てきはつ)を食い止めようと苦心していたが、三條卒倒の椿事(ちんじ)につけこんで、一気に江藤(えとう)追い落としを謀(はか)った。伊藤の策略は、岩倉を太政大臣代理につけて強引に西郷使節派遣を葬(ほうむ)れば、江藤(えとう)を含む参議連中が抗議(こうぎ)の辞表を出すにちがいないから、逆手(ぎゃくて)を取って辞表を受理すればいい、というものであった。
伊藤は、この陰謀を大久保に吹き込んだ。怒りに平素の冷静さを失っていた大久保は、まんまと伊藤の策略に乗せられた。大久保は、薩藩以来の同志で宮内省の高官になっている吉井友実(よしいともざね)に手をまわし、岩倉を太政大臣代理に就(つ)けることに成功した。
そこで、岩倉は、無法にも閣議の正式決定である西郷使節派遣を否認するようにと天皇に上奏(じょうそう)した。若い明治(めいじ)天皇は岩倉の言いなりになった。岩倉の行為は、太政官職制(だじょうかんしきせい)や正院事務章程(せいいんじむしょうてい)などの政府の基本法規に違反する暴挙(ぼうきょ)であった。
ここにドンデン返しが生じ、西郷や江藤は抗議辞職するほかはなかった。まんまと罠(わな)にはめられたのである。大久保(おおくぼ)のクーデターは成功した。これこそが明治六年政変の真相である。いうまでもなく征韓論云々(うんぬん)とは無関係であった。
わたしはかねてから征韓論政変説が不自然であるのに気づき、政変の学問的解明に努めた結果、以上の結論に到達した。詳(くわ)しくは、拙著「明治六年政変の研究」(有斐閣、1978年)、「明治六年政変」(中公新書、1979年)を参考にしていただければ幸いである。
『大久保内務卿』
大久保は、政変(クーデター)によって権力を奪回(だっかい)したが、最大の同志西郷(さいごう)を失(うしな)うという大きな犠牲(ぎせい)を払わなければならなかった。以後の大久保の政治行動は必ずしもすっきりしたものではなかった。かれは、政変における無理な行動が蒔(ま)いた種を刈り取らねばならなかったし、政変時の首尾一貫(しゅびいっかん)しないわかりにくい行動の事後的(じごてき)な合理化、正当化にも努めなければならなかった。
しかし、大久保は、その難(むづか)しい仕事を、持ち前の実行力と粘りでやり抜いた。かれは内務省(ないむしょう)を創設し、上(かみ)からの日本近代化に奮闘(ふんとう)した。それは、権力奪回(けんりょくだっかい)の正当性を事後的(じごてき)に示(しめ)すためにも不可避(ふかひ)であったし、なによりも弱肉強食の十九世紀世界において日本が生き残る唯一の途(みち)であった。
初代内務卿(ないむきょう)大久保利通(おおくぼとしみち)は、不退転の決意でこの仕事に取り組んだ。そして、明治十一年(1878)五月十四日、東京紀尾井坂(きおいざか)で、不平士族に襲われて四十九歳の波乱の生涯を閉じた。かれは自分の蒔いた種を全力をあげて刈り取り、最後は暗殺(あんさつ)されることで自分なりの精算(せいさん)をつけたともいえよう。それは、政治の戦場におけるいかにも大久保らしい名誉(めいよ)の戦死というべきかもしれない。
了
大阪市立大学教授 毛利敏彦
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大久保利通は暗殺ではなく天誅の誅殺です。
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「大久保利通暗殺事件」より転載
www.spacelan.ne.jp/~daiman/data/zatugaku06.htm
(歴史よもやま 第6話)
■明治11年(1878)5月14日朝、東京の紀尾井坂から赤坂御門に至る北白川宮邸と壬生邸にはさまれた、通行人のない閑静な路上で事件は起きました。
薩摩出身の参議兼内務卿大久保利通は、午前8時10分、二頭立て馬車に乗り護衛もつけず、登庁のため、裏霞ヶ関の屋敷を出ました。
馬車が紀尾井町1番地へとさしかかり、赤坂御門の前を過ぎ、壬生邸の横に至った時、旧加賀藩士の島田一良、長連豪(ちょう・つらひで)ら6名の刺客が襲いかかったのです。
大久保は彼ら刺客に「待て」と言い、自らドアを開け路上に降りました。
「無礼者っ!」と一喝を残し、前後から刃を受けて倒れ、ついに止めを刺されたのです。大久保利通、享年49歳でした。
この紀尾井町の、明治新政府の中心人物大久保利通暗殺事件は当時の社会に大きな衝撃を与えたそうです。
特に首謀者の多くが旧加賀藩士だったことから、石川県の近代史に特筆される事件となりました。
この後、政治の主導権は伊藤博文たち長州閥に移ることになり、政府内の権力争いにも影響を与えました。
首謀者6人
島田一良(しまだ・いちろう) 長連豪(ちょう・つらひで) 杉本乙菊
脇田巧一 杉村文一(以上石川県士族)
浅井寿篤(島根県士族)
彼らは「暗殺は卑怯だから」と思い、大久保を襲撃後すぐに凶器を投げ捨て、まっすぐに宮内省に駆けむかいました。
門前に立ち、大声で自分たちが大久保殺害の下手人であることを名乗ったそうです。
金沢市野田山麓にある島田一良、長連豪たち6人の
墓所。http://www.spacelan.ne.jp/~daiman/photo02/pho11.JPG
島田一良らが集った三光寺。 (金沢市野町)
島田たち不平士族はここで会合を持ち「三光寺派」と
よばれました。http://www.spacelan.ne.jp/~daiman/photo02/pho16.jpg
■彼らが掲げた暗殺理由(斬奸状)
「薩長藩閥の専制独裁」
「法令の乱用による政府官吏の私利私欲」
「国費の乱費と憂国の士の排斥」
すなわち、大久保らの専制政治は民権を抑圧して国費を浪費し、政府官吏の私利私欲。さらに外交の失敗により国権の失墜を招いたというものです。
言論の自由がない当時の社会では、自分たちの意見を表現するには暗殺以外にないと考えたのでしょうか。
■襲撃後、官に名乗り出て死刑になるなら、いさぎよくそれを受ける。人を害して我が身のみ逃れることをしないという彼らの態度は(狂信的な面もあり、もちらんテロリズムは許されない行為ですが)、現代のまったく関係のない人を標的にして殺し、自分は隠れるという卑劣なテロリストとは違うと思うのです。
襲われた時に、刺客を制して冷静に書類を風呂敷に包み、馬車から降りた大久保利通とともに、彼ら刺客たちも「武士」だったのだな・・・と思います。
転載終わり
http://ameblo.jp/chanu1/entry-12067842671.html
18年間、却下し続けたが、安倍(下村続投)政権下で改名!
だってこういう奴らが少しづつ少しづつかすめ取るんだから...
国民にわからないよ〜うにわからないよ〜うに.....
でももうバレた
バレたんだよ
いろんなことがわかっちゃった
色々色々色々クソよりもきたねえ、くっせぇことをやってることがな
この後のマスコミの対応を注視することにする
『お・も・て・な・し』⇒『ろ・く・で・な・し』
『お・も・て・な・し』⇒『ひ・と・で・な・し』
『お・も・て・な・し』⇒『ウ・ラ・は・あ・る』
あっ『お・も・て・な・し』ってそういう深い意味が隠されてたんだ。
滝川クリステルの世界へのメッセージだったのか、納得。
さて、自分が新政府で得た権力の私物化を求めて迷った公家化した元武士官吏大久保利通は、斬奸状の下に武士道武士らによって誅殺されましたが、田布施の非武士忍者非人伊藤博文も、皮肉にも和韓論の武士道西郷隆盛を自分の陰謀の西南戦争で殺して乗り込んだ朝鮮半島で、さらに皮肉にも大久保と同じく斬奸状の下にこちらは非人ですから銃殺されたのです。
安重根が記した斬奸状はこちらを参照してください↓
「良く、こんなところで暮らしてるな・・・」
http://vrai2.blog.fc2.com/blog-entry-50.html
2012/08/02 13:21
伊藤博文暗殺事件の犯人、安重根斬奸状の要点
1 韓国のミン皇后を殺害した罪
2 韓国皇帝を廃位させた罪
3 5条約と7条約を強制的に結んだ罪
4 罪のない韓国人たちを虐殺した罪
5 政権を強制的に奪った罪
6 鉄道,鉱山,山林を強制的に奪った罪
7 第一銀行券紙幣を強制的に使った罪
8 軍隊を解散させた罪
9 教育を邪魔した罪
10 韓国人たちの外国留学を禁止した罪
11 教科書を押収して燃やしてしまった罪
12 韓国人が日本人の保護を求めていると世界に嘘をまき散らした罪
13 現在,日韓で競争が休みなく,殺戮が絶えないのに
泰平無事なように上に天皇を欺いた罪
14 東洋平和を破った罪
15 日本天皇陛下の父である太皇帝を殺した罪
注目すべきは15番目に天皇暗殺が触れられてる。(笑)
ただ、一々検証は避けますが、
最初のミンピ事件とは大韓帝国皇后ミンピを
日本の三浦梧楼が指揮するとされる集団が宮廷に侵入、
皇后を全裸にして、強姦、嬲り者にした上、くびり殺した事件です。
日本の皇后がこれをやられたら、日本人は誰でも激怒する。
安重根の9歳の息子は彼の刑死、数日後に殺されています。
3の乙巳条約は、日本が欧米列強との間で結ばされた不平等条約と
同じ屈辱的なもの。
これを日本は近代化の流れの中で解消したのですが
日本はそれをすべき政府そのものを略奪した。
日本が山林に植樹したり、鉄道を整備したのは事実ですが、
その前に6があった。
接収したものを日本が整備したに過ぎないんです。
韓国の排日、反感はこの明治政府の政策から始まってるんです。
これをやった日本政府にも言い分は勿論ある。
ロシアの南下があってもう李朝朝鮮がどうしようもなく腐敗していた。
日本の安全保障上の目的からも日韓同盟は必須だったけれど
朝鮮側の政治状況が不安定で政争に明け暮れてる。
やむを得ない手段だった。その通りです。
でも、軍隊を解散させるとか、焚書坑儒的なことが
彼らの自主性を全く無視した結果。結局、恨みを買ってるんです。
100年も前の話じゃなくて、反日教育の原点を冷静に見てきたら
日本の自業自得ということでもある。
そんなのは戦前の話で、オレはやってないというのは関係なくて、
その結果が現在の38度線の朝鮮半島分断につながってるわけだし、
イムジン川ではありませんが、今でも半島の人たちは影響を受けてる。
これは事実であって、自虐史観ではないですよ。
在日の原点は朝鮮戦争難民ですが、何故朝鮮戦争などがおきたのか
当たり前の話で国が分断されてしまった。
これを統一しようとしたのだから、
最初から統一朝鮮なら起きないことなんです。
つまり遠因は日本にある。(あった)
これはほんの一例ですが、こういったことをきちんと理解して、
そのまま事実として受け止め、その上で前向きに在日と接したら、
彼らも自分の苦悩は述べても、前向きな対処をしますよ。
それを差別するのは人の頭をぶん殴っておいて、
自己主張だけを言い続けて、相手が怒ったら、怒った方が悪いと言うようなもの。
「在日の行動背景の裏にはそれなりの理由がある」わけです。
日本人が彼らを嫌うそれなりの理由とはなんですか。
11:53 「世界平和統一家庭連合」だあ!? カルト感ますますアップでいいね↑
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Author:ヤマダ
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