読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

「ズルい」と言う子たちの抱えているもの


昨日の2部作にまうどんさんからこんなブコメを頂きました。

 

それに対して私がその時思ったのがこんなこと。

 

「ズルい」と言う子がいるかもしれないという懸念

これは実際に去年自分で経験した事なのだけれど、配慮が必要と私が感じた息子のことで学校と相談して対応をお願いしたときに「●●くんだけズルい」という声があがるかもしれない、と学校側から懸念され、それに対して私は「その可能性は理解できるし、学校として対応が難しいのもわかる、でも息子が心を病まずに学校に行くためには必要な配慮であり登校を続けるために無理を承知でお願いしている(この時点で、それが叶わないなら自宅学習でも構わないと私と夫は申し出ていました)し、その息子を見て「ズルい」という声がどこからからあがるとしたらそれは、その子そのものも何かしらの配慮を必要としている子だということではないでしょうか」と校長先生とお話ししました。

 

実際には息子はその後学校側からも丁寧な対応を頂き、現在は問題なく学校へ通っていますし当時もズルいという声で困るような事態にはならなかったようです。

 

「あの子だけズルい」という言葉

このときは杞憂に終わった「ズルい」という子がいるかもという案件ですが、「あの子だけズルい」という子どもの声がという話は障害の有無に関わらずフォローが必要になった子の周りにいつも付いて回るフレーズのように思います。実際それで苦慮されたとか、いじめのきっかけになったという声も現場で耳にすることもあるし、目にすることもありました。

 

言葉にでればまだ解り易いのですが、言葉として表出することなく対象の子への加害や暴言などの問題行動に繋がるケース、からかいや揶揄などとして傷つけるケース、直接対象に向かわず指導者への反抗など保護する側への言動として現れるケースなど様々な形で、ズルいというねたみの気持ちを抱えた子どもたちのお腹の中のモヤモヤがその子たちを振り回していることはよくあるように思います。我が家の兄弟間でも過去にあれがそうだったんじゃないか、と思うトラブルもありました。

 

なぜ「ズルい」と思うのか。

なんで「ズルい」と感じる子と感じない子がいるんだろう、というのはずっと感じている疑問です。配慮を受けている子に対して嫉妬を感じない子も確実にいるんですね。それは自分の心が満たされているからかもしれないし、見下しているからかもしれない。どんな心理状態なのかは私も解り得ません。

 

私が気になっているのはズルいと感じない子、ではなくて、感じる子。

嫉妬や苛立ちを募らせるその要素はなんだろうかとずっと思っていました。我が子に配慮をお願いする以上、兄弟間でそれが起こる可能性は高く秘めていると思うし、学校などの活動の場でそれに起因するトラブルを引き起こす可能性はある、他人事ではないと。

 

「健常な子は頑張ってるけどフォローが必要な子が怠けてるように見えて目につくんじゃないか」とまず思いました。自分が頑張ってやっていることを免除してもらったり、昨日のエントリのように底上げをしてもらったりしている、自分は頑張ってるのに、と。

 

「自分は頑張ってるのに」

これ、Twitter始めネット上でもよく目にする表現だったりします。私は頑張ってるのに楽してるように見える人が許せない、という感情。

自分の親を頼って楽をしているママ友がむかつく、両家の親を頼らずに夫婦で育児を頑張っているのに、とか、私は一人で頑張って子どもたちの世話をしてるのに仕事が忙しいからと帰りの遅い夫が許せない、とか、自分は頑張って勉強して大学に行って働いて高い年収を得たのに所得税が高く怠けている貧乏人が税金が低かったり生活保護をもらったりしているのが納得いかない、とか。

 

こういう「自分は頑張ってるのに怠けている(ように自分から見える)人が許せない」という心理、これ、まさに「ズルい」と妬む子たちと同じだなぁと。私も仕事やその疲れを理由に家事育児を私に放り投げようとする夫に幾度となくそうやって腹を立ててきたなと。一人できりきり舞いしてる自分と同居の姑に家事育児任せてる身内を妬んだこともあったなと。

 

そう感じていた自分と、ズルいと思う子

過去を振り返って自分がなぜそんな風に妬んだり辛くなったりしていたのか、と考えてみたんですが、ストレス過多、キャパオーバー、それに尽きるような気がするんですね。要は、抱え込み過ぎていた。自分に出来ると思って取り組んでいたのだけれど、自分のキャパを大きく超えるものを抱え込んでいて、それに振り回されいっぱいいっぱいになってた。

それに気づいてから、なんだ自分の問題だ、と状況を冷静に捕えられるようになったように思います。

もちろんそのキャパを超えるものを抱え込んでしまう原因としては元々の自尊心の低さやそれにより人を頼れないこと、特性ゆえの苦手な事に気づいていなかった、などが大きな要素だったんじゃないかと。

 

そして「ズルい」と感じる子の抱えているのもそのストレス過多、そしてキャパオーバーじゃないか?と思ったんですね。

 

ストレス過多、キャパオーバーの要因

学校や家庭の中で子どもたちがストレスを強くうけたり、キャパオーバーの何かを抱え込んだりする要因、考えられるものは色々とあると思うのだけれど、まず思いつくのは家庭の不和なのかな、と思います。よくあるのは夫婦喧嘩が多いとか、ひどいケースだとネグレクトに近い状況であるとか虐待を受けているとか。

 

それに加えてもう一つ思いついたこと、それが、その子のキャパシティです。

 

上で、健常な子は頑張っているが、と書いたのですが本当にそうだろうか?と考える過程で疑問に思えて来たんですね。自分が精神的に落ち着いているとき、キャパシティを超えない状態で暮らしている状況のときは周囲への妬みは起こりづらいことを考えると、自分の中に湧いた「ズルい」という気持ちに振り回されている子どもたちも同じように、キャパを超えたものを抱えてしまってるんじゃないか、と。

 

本人も周りも気づかない、ハンディ

まえにここでも何度か書いたことがあるのだけれど、発達障害のことを勉強すればするほど、スペクトラム(連続体)の一部にすぎないのだということを感じています。普通と障害という2つの分類ではなく、なだらかに程度が違って繋がっている連続体のどこに自分が属しているのか、という話なのだろうなと。

 

うちは、4人のうち1人が学校で落ち着かないなどの問題があるというケースから発達検査を受けるに至ったのだけれど、ほかの3人がどうかは現状未知数だと思っています。未知数ですがそれぞれにフォローが必要な状況が起これば対応しなければという感じ。私自身も未受診ですがそれなりの特性の傾向がありそうだなぁと自分で感じるので色々な工夫をしながら暮らしているのですが学生時代に学校から問題視されることはなく大人になるまでまったく気づきませんでした。

 

「頑張れば」できる子たち

同じ、1日友達とトラブルを起こすこともなく6時間目まで教室で授業を受ける、という行動でも、何のストレスも感じず困難も感じず、頑張ることもなくこなせる子もいると思います。でもその影には、同じような行動をとっている様に見えて「ついていけるように頑張っている子」の存在があるのではないかと思うのです。

その頑張りの度合いも、おそらくその子その子で全然違う。

 

学校で大きなトラブルになることもなく「頑張れば」それなりにやっていけている子どもたちは教室の中に潜在的にかなりの数いるのではないか、と思ったりしています。

その「頑張って」人並みに追いついている子たちにとって、特性丸出しでフォローを必要としている子たちは「頑張ってない」ように見えるのかもしれない。

 

例えば100mをなるべく自力で20秒で進む、という課題に対して、息を上げる必要も無く難なくこなせる人もいれば、涼しい顔をしながら難なくこなしているように見せて実は足に負担がかかっている人も、ちょっと頑張って早足で歩けば達成できる人、ダッシュすればこなせる人も、早歩きできないから自転車使っていいですか?っていう人も、自力では無理だから車椅子を誰か押して下さい、っていう人も、なだらかな連続体の中でいろいろなケースで課題に取り組もうとする人がいるのではないかなと思うのですね。

 

その色々な取り組み方のなかで、自分のハンディを理解して周囲に配慮や援助を頼んでいるの子たちを妬んでしまう心理になるのが、難なくこなしているように見せながら実は負担が多くかかっている、「頑張ってる」子たちなのかなと。

 

「ズルい」というサインを見逃さない

周囲に出来るのは、まず「ズルい」という心理にならないような環境を整えてあげることが第一なのだろうとは思います。ただそれは周囲の大人にとても余裕が無ければ容易ではないと思う。

 

だからこそ、「ズルい」が出てきたときのサインを見逃さないというのがとても大事なんじゃないかと思うのです。

ズルいという言葉だけでなく嫉妬に起因すると考えられる問題行動が見られたら「もしかしたらこの子も同じようなフォローを必要としているのではないか」という視点で観察すること、その子の自尊心を傷つけないような形で「頑張り過ぎている」状況を緩和したり、課題を乗り越えるフォローをしてあげること、時には支援に繋げるような対応も必要となるのかもしれません。

 

昨日のエントリに書いたようなマイツールや教育のユニバーサルデザイン化も、水面下で誰も気づいていない困難を抱えている子たちを静かに救ったり、支援に繋げたりする一助になるのではないかと考えています。

 

「ズルいと思うなんて」とその感情を否定したり、改善を促したりすることはその子の抱える問題に蓋をしてしまうことになるかもしれない。でも視点を変えてそこに何かあると思って接することでその子自身の抱えるものに気づけるかもしれない。「ズルい」という気持ちを外に吐き出せる子の心の声を見逃さない大人でありたいと改めて思っています。

 

 

参考(過去エントリ)

スポンサードリンク