【コラム】120年たっても変わらない日本右翼の野蛮な属性

120年前、日本は外交路線を変更した朝鮮の王妃を殺害
安達謙蔵「朝鮮のやつらが頭をもたげ日本を軽蔑」
その野蛮な属性がメディアの排せつ口を通して再びぶちまけられた

 景福宮の南端にある光化門から北端の乾清宮まで、走って7分ほどかかる。120年前、朝鮮にいた日本の内田定槌領事が王妃殺害の現場を描いた、景福宮地図の順路をたどった。1895年10月8日早朝、光化門を突破した日本軍守備隊主力は、王妃がいた乾清宮に向け、もっと速く駆けていったことだろう。

 記録によると、朝鮮軍による2度の抵抗は簡単に突破された。一部は、銃声に驚いて逃走した。景福宮乱入から王妃殺害まで、数時間もかからなかった。ロシアを引き入れるという王妃の外交政策で、時局は殺伐としていた。日本は王妃を殺害するだろうといううわさが首都内に出回った。それでも、警備は不十分だった。王妃は、傍らに西洋人を数人置いておけば、日本はどうにもできないだろうと考えた。しかしその日、西洋人は惨状を見守るだけだった。

 乾清宮の地図に、内田領事は赤で1、2、3という数字を書き込んだ。近くにある丘の南側には、4と書いた。内田領事が残した報告書によると、1は王妃を襲撃した長安堂、2は1から王妃を連れ出して殺害した長安堂の裏庭、3は王妃の遺体を移した玉壺楼、4は王妃の遺体を焼いた鹿山だ。当時、乾清宮には高宗と、後に純宗として即位する王世子、王世子妃もいた。証言によると、日本軍によって高宗は服を破られ、王世子はまげをつかまれ、王世子妃は日本軍から「王妃を捜し出せ」と剣先で脅された。王妃の前で日本軍に立ちはだかった忠臣の李耕稙(イ・ギョンジク)は、両腕を斬られて死んだ。王妃は、宮女と共に凶刃に倒れた。

鮮于鉦(ソンウ・ジョン)国際部長
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