解放から1か月
辛容祥さんは、「玉音放送」を聞いた直後に友人の尹致夏さんと会って、真っ先に特高警察の話をした。当時の朝鮮人にとって特高警察は恐怖の対象でしかない。今の警察では例えようがない政治警察だった。かれらの目に朝鮮人はおよそ日本国家を脅かす”不逞鮮人”だった。
辛さんが戦前、佐賀県鳥栖の田舎に仕事を探すために行った時の話だ。九州の炭鉱では多くの朝鮮人が働いていた。朝鮮半島から強制動員された人たちだけでも足らず、新聞広告が出ていた。月収100円(今では100万円相当)とあった。
学校への進学を夢見ていた辛さんは、1年間ぐらい働けば、学資金は稼げると思って、佐賀県の鳥栖に向かった。それで鳥栖の駅前を3回出入りすることになった。
すると、駅から出た途端に警官に呼ばれて交番に連れて行かれた。「当時の警官は、朝鮮人と日本人の区別がよくできた。今の刑事たちとは比べものにならない」と辛さんは言う。
交番には駅を出入りする度に呼ばれた。同じ警官に3度調べられたこともある。警官も悪く思ったのか、「佐賀県で朝鮮人警察官を募集している。応募してみないか」と勧誘された。
都内でも同じだった。辛さんが交番の前を通った時、「お前、ちょっと来い」と呼ばれて調べられた。警官は「今、朝鮮人も徴兵制がひかれていることを知っているか? 本籍地に連絡しないとだめだよ」と言われ、「知っています」と答えて帰してもらった。
当時は21歳以上の朝鮮人は、朝鮮で徴兵検査を受けて、日本で軍事訓練をしている途中で解放を迎えた人たちが多かった。そして、そのまま日本に残った人たちが少なくなかった。
戦前の朝鮮では、日中戦争が始まり、1938年から志願兵制が導入され、1944年から徴兵制が実施された。動員された朝鮮人は21万人を数えたといわれる。
とにかく、戦前の警官に対する反感は強かった。解放から1カ月後には、仲間たちと食事をしていた料亭で、偶然に特高刑事をしていた男と出会った。殴り合いとまではいかなかったが、言い争いにはなった。
辛さんらは、特高の男を捕まえて、「よくもやってくれたな。さあ、どうする、お前の時代は終わった」と詰め寄った。意外だった。男は低姿勢になり、ひたすら頭を下げた。これを見て、辛さんは本当に時代は変わったのだと、ようやく実感するようになった。 |