東京オリンピック組織委員会は、佐野健研二郎氏がデザインしたロゴの使用中止を発表しました。武藤専務理事・事務総長が記者会見を行いました。
ベルギーのリエージュ劇場のロゴマークと似ているという指摘がなされて以来、佐野氏のこれまでのデザインにも数々の著作権侵害の疑惑が持ち上がりました。ついにサントリーのトートバッグとオリンピックロゴの使用例の画像では明確な画像の盗用が認められ、オリンピックの決定したロゴが取り下げられるという異常な事態になりました。
僕は、CIやグラフィックデザインを専門とするデザイナーではありません。ですが、一応デザイナーの端くれとして、上場企業のCIデザインを担当したことなどもあり、やはり本件には思うところがあります。
著作権侵害の指摘について
まず、最終案のデザインのリエージュ劇場のロゴとの類似については、佐野氏の他の問題を考えずにフェアに見たときに、必ずしも盗用と断言できるほど一致はしていないと考えます。(リエージュ劇場のデザイナー自身も、当初は偶然の一致と思ったとのことでした。)だからこそ当初は多くのデザイナーが擁護に回りましたし、僕自身もこれで盗用と言われるのは可哀想だという感想を持ちました。
それでも僕は、今回のロゴが撤回となったことは適切だと考えます。その理由は下記の2点によります。
佐野氏自身のプロのデザイナーとしての資質
まず、ネットの集合知によって、佐野氏がその仕事の仕方に大変問題のあるデザイナーであることは明らかになりました。デザインのアイデアについては、他の作品からインスピレーションを得ることと盗用の間の線引きは難しい面があります。しかしが素材そのものの盗用は一切の言い訳が効きません。そんなものが一件でもあった時点で、プロのデザイナーとしてはアウトでしょう。クリエイターであれば制作物の権利処理を適切に行うのは、デザインの良し悪し以前の問題です。
これだけの盗用が明らかになった時点で、オリンピックのような公共性の高い大きなイベントのデザインの担当にはふさわしくないと判断されるべきです。では、そうした佐野氏のデザイナーとしての資質を考慮に入れずに、純粋にあのロゴを評価した場合にはどうか?僕は、デザインそのものと、明らかにされている選考と検討のプロセスを総合的に評価して、国家が運営する国際イベントのためのデザインとして十分な水準とはいえないと判断します。
ロゴ自体への評価
ロゴデザインというものは、企業であれ製品であれイベントであれ、その存立理念から出発し、そのアイデンティティーを適切に表現し、伝達し、展開することをミッションにしています。(だからCorporate Identityとか、Visual Identityとかいうわけです。)自分がCIデザインを担当した際も、企業理念の言語化に多くの時間を費やし、その理念を明確に表現する図案を求めて200〜300のアイデアの制作を行いました。また色の選定、タイポグラフィの選定、そのすべてにおいて、表現と背景の文脈に検討を重ねて選定を行いました。さらに、僕自身はグラフィックデザイナーとしての専門的なトレーニングを受けていませんので、同僚でグッドデザイン賞審査委員長を務めたこともあるデザイナーの下で学んだデザイナーが、デザインの精緻化を担当しました。
経験値の少ない身で、どれだけの仕事ができたかの評価は自分ではできませんが、上場企業という社会的存在のCIをデザインするうえでは、最低限絶対にやらなくてはならないことはやったつもりです。
結局のところ佐野氏のロゴからは、オリンピックというイベントのアイデンティティーが伝わってきません。2020年というタイミングで、日本という国家が、国際的なスポーツのイベントを行う。1964年とは違うその意義はなんなのか。多くのアスリート、スポーツをする人にとっての夢の舞台としてのオリンピックというアイデンティティーを表現しきれているか。
シンボルとしてみた場合に、すでに多くの人から指摘されていますが、人々がオリンピックに抱くそうしたイメージがまったく表現されていません。正方形/長方形/円という構成部品も躍動感を感じさせないし、金/銀/黒/赤の配色もメダルや日本という記号を表現しているだけで、人の感情に訴えかけてくるものがありません。なにより中心の黒の心棒が進出してくるが、この棒が何を意味しているのかはいっさいわからないし、説明もありません。
1964年の亀倉雄策氏によるロゴへのオマージュとしての円、というコンセプトの説明はされていたものの、左上と右下のコーナーだけでそれを伝えきれているかというとやはり無理があります。なにより、応募時のデザインには円弧の要素がなかったため、このコンセプトは手直しの中で取り入れられた後付けの要素でしかなかったことが明らかになってしまいました。
このように、このロゴを通して、佐野氏がオリンピックをどのように捉え、どのようにシンボライズしようとしたのか、読み解くことができません。では、純粋に図案として見た場合の突破力があるか。幾何図形を並べた造形、佐野氏本人も「一般的」と認める色彩設計にしても、「凡庸」との謗りは免れないでしょう。
なぜ取り下げという自体に至らざるを得なかったのか
繰り返しになりますが、最終のデザインに至る過程で、リエージュ劇場のロゴを真似したのかそうでないのか。それはわかりません。ですが、このインターネットの時代にあっては、シンプルな図案であれば類似のものを見つけることはいくらでも可能でしょう。大事なのは、シンボルとして、イベントのアイデンティティーを説得力をもって表現できているか。オリンピックという大きなイベントのロゴとして求められる説得力、突破力が、やはり足りていなかったのではないか。だからこそ、著作権侵害との指摘に対して、正々堂々と立ち向かえなかった。関係者や、世論の支持も得られなかった。その結果としての、取り下げという自体を招いたのではないか。
厳正な審査の下に選ばれたはずのロゴが、このように十分な水準でなかったこと。それは応募されたデザインがそんな水準だったのか。僕は日本のデザイナーのレベルはそこまで低くないと信じていますが、そうであったとしたらなにかあのロゴが選ばれた事情があったのか。これ以上の憶測は差し控えたいと思いますが、その背景はやはり組織委員会および審査委員ら関係者によってきちんとした振り返りがなされ、新たなロゴの選考プロセスにきちんと反映すべきです。それをやらなければ、また同じような問題が起きない保証はどこにもありません。
また、オリンピックとは別に、佐野氏のような不適切な仕事をしているデザイナーが、多くのナショナルクライアントの仕事を担当し、日本のクリエイティブ業界で高い評価と名声を得てきたという事実には、暗澹とさせられます。その過程では、佐野氏のこれまでのキャリアや、人脈などによるバイアスが大きく影響したことでしょう。私たちデザイナーも、デザイナーに発注を出す企業のみなさんも、消費者としてデザインに接するみなさんも、デザインの仕事に対して、虚心でその中身と品質に向き合う土壌を作っていかなければならないのではないか。コピペの仕事がはびこることを許してきたのは、デザインに関わる私たち一人一人の責任なのです。
傾聴すべきデザイナーたちの見解
本件については、日本における今日のCIデザインの生みの親であるPAOSの中西元男先生による、下記のコメントもぜひ読んでいただきたく思います。日本のデザインは、50年前のオリンピックの頃よりむしろ後退してしまったのではないかという指摘に対して、私たちの世代のデザイナーには奮起が求められています。
2020東京オリンピックと「日本デザイン界の大きな時代遅れ」
また、私たちの世代を代表するデザイナーであるNOSIGNERこと太刀川英輔さんの下記の提言も傾聴に値します。
アンチが盛り上がっているのは関心レベルがすごく高いということだから、オリンピックのクリエイティブディレクションは、今からでもオープンなプロセスを整備すべきです。
1億総デザイナー時代。みんなでオリンピックをつくる。一枝の草、一握の土。面白いじゃないですか。
— NOSIGNER (@_NOSIGNER) 2015, 8月 29
ぜひこうした、デザイナー側からの提言も多くの人、特に関係者に届き、今回の失敗を踏まえて次こそは、オリンピックのアイデンティティーをしっかりとシンボライズし、表現としても優れた、誰もが愛するようなロゴになることを願ってやみません。