滋賀の戦争遺跡1:米原の蒸気機関車避難壕、伊吹山測候所着氷観測所(滋賀県米原市)
1.はじめに
今年の夏(2015年8月)は終戦70周年にあたります。
この機会にご紹介したいと思っていたのが、滋賀の戦争遺跡です。
「戦争遺跡」と聞くと、何を想像されるでしょうか。
広島の原爆ドーム、沖縄のひめゆりの塔、各地に残る防空壕・・・。
実は滋賀県内には、全国的に貴重でありながらあまり知られていない戦争遺跡があります。
米原駅からさほど離れていない岩脇山には、非常に珍しい「蒸気機関車避難壕」があります。
東近江市の陸軍八日市飛行場跡周辺には、「掩体壕」(えんたいごう)と呼ばれる軍用機の避難壕が現存しています。
幸いなことに、どちらも地元の方にご案内いただいて撮影する機会を得ました。
戦争遺跡は近世の城郭・遺跡の上(またはその周辺)にある場合が少なくありません。
そのため、滋賀の文化財を撮影して歩いていた私は、近年いくつかの戦争遺跡に出合うことになりました。
昨年夏、滋賀県の戦争遺跡を研究されている滋賀県立大学の中井均先生(近世城郭がご専門)の講演を拝聴しました。たくさんのヒントをいただいた中井先生、現地をご案内いただいた米原市と東近江市の皆様に厚く御礼申し上げます。
2.戦争遺跡とは
「近代日本の侵略戦争とその遂行過程で、戦闘や事件の加害・被害・反抗抵抗に関わって国内国外で形成され、かつ現在に残された構造物・遺跡や跡地のこと」(十菱駿武・菊池実(編)『しらべる戦争遺跡の事典』柏書房、2002年)
「戦争遺跡(せんそういせき)は、戦争の痕跡、戦跡、戦蹟。戦争のために造られた施設や、戦争で被害を受けた建物などで、現在もそのままないし遺構として残っているものを含む。かつての戦争の時代を物語る遺跡であり、後世に伝えることで歴史の生きた教材になりうる。」
「第二次世界大戦期のものが多いが、西南戦争の戦跡なども含まれる。近年では保存措置が講じられたり、文化財として指定される事例も出ている。しかしながら、その価値が十分に理解されているとは言えず、特に近世の建築遺構と戦争遺跡がかち合う場合、戦争遺跡の調査・保存が軽視されがちなのも事実である。」(戦争遺跡(ウィキペディア))
3.米原の蒸気機関車避難壕(滋賀県米原市岩脇)
3-1.米原について(写真:撮影当日に米原市内を走っていたSL北びわこ号)
岐阜県の関ケ原から滋賀県に入ると、そこは米原(まいばら)です。
米原は中山道と北国街道の分岐点で、琵琶湖にも面していることから、古くから陸路および湖上交通の要衝として栄えました。明治に入って鉄道が敷かれると陸上交通・運送の要衝となりました。米原駅は北陸線と東海道本線の接続駅でもあります。
第二次世界大戦末期に、東海道本線と北陸線の列車を牽引する蒸気機関車を、連合国軍の空襲から避けるために作られたのが、米原の蒸気機関車避難壕です。
3-2.米原市岩脇地区について(写真:岩脇山の岩屋善光堂からの眺め)
米原駅から東海道本線の線路沿いに2kmほど行くと、岩脇(いおぎ)という集落に出ます。岩脇山の山麓に見えてくるのが、写真の岩屋善光堂です。
この日は特別に岩屋善光堂の内部を撮影させていただきました。
お堂内部に岩が入り込んでおり、石仏が祀られていました。
岩屋善光堂の上から見た、岩脇山の岩と、岩脇地区です。
この岩脇山の山麓・岩屋善光堂の奥に、蒸気機関車避難壕が2箇所残っています。戦時中に地元の方が駆り出され、手作業で掘ったという避難壕です。
3-3.米原の蒸気機関車避難壕
2箇所の避難壕のうち、左側に位置する避難壕の入口です。
左側の避難壕は幅3メートル、高さ3メートル、奥行52メートルで、途中で行き止まりとなっています。
避難壕は未完成のまま終戦を迎えました。
こちらが右側の避難壕入口です。
右側の避難壕は幅3メートル、高さ3メートル、奥行130メートル。奥は貫通しています。
右側の避難壕の内部は水がたまっており、地元の方によって板がかけられています。まるで炭鉱の坑道のようで、静まり返った薄明かりの中をコウモリが飛んでいました。
機関車を入れるには微妙な大きさですが、実際に入ってみるととても立派で大きな防空壕でした。写真だけではお伝えできないのがもどかしい位です。たとえば戦争映画のロケ地として使ってもらえたら、多くの人にこの場所の意義が伝わるのかもしれません。そんなことを考えた、夏の一日でした。
機関車避難壕はごみ捨て場として放置されていましたが、地元の「岩脇まちづくち委員会」が平成20年10月から平成21年8月にかけて整備をされました。普段は施錠されていますが、事前に申し込めば見学可能です。(撮影日:2015年8月)
4.伊吹山測候所着氷観測所
同じ米原の伊吹山頂では、1919(大正8)年8月から2001(平成13)年3月末まで、測候所による気象観測が行なわれていました。測候所の跡地は2010年に更地になりましたが、こちらは同じ2010年に撮影された測候所の写真です。
戦時中、着氷観測所があったのは、ニセコ(北海道)、富士山、伊吹山でした。
日本海軍の航空機設計等に携わった「海軍航空技術廠」(かいぐんこうくうぎじゅつしょう)は、高い高度を飛んだときにエンジンが凍らないための研究をニセコの着氷観測所で行ったと言われています。
戦時中に伊吹山で何を研究していたのか不明のまま、伊吹山測候所は無くなりました。
写真提供:ウィキペディア(クリエイティブ・コモンズ CC0 1.0 全世界 パブリック・ドメイン)
※当ブログは2015年8月末を目処に移転を予定しています。この記事も移転します。
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