三行文士

中浦 ジュリアン

永禄11年(1568年)頃、肥前国中浦(長崎県西海市西海町中浦)にて誕生

彼の出生についても、原マルチノ同様、ローマ市議会の書類に残っているものから推測されています

日本の歴史から彼らが消えてしまった理由は原マルチノの回で述べた通りです

彼らの身分について、海外の史料にはなぜ詳しく残っていたのかというと、伊東マンショの回にて書いた内部告発のため…という背景もあります

全ての歴史は繋がっているのです

 

ジュリアンが天正遣欧少年使節の副使として選ばれた理由も、同じ副使である原マルチノと同じく“成績が良くて礼儀正しい美少年”だったから☆…と、いうのは少々意訳し過ぎの感がありますが、やはりジュリアンも、「セミナリヨの一期生であること」と、「教養・礼儀・美しさ」が優れていること

この条件を満たしていた少年だったからだと思われます

長旅に耐えうる健康な体、勉学に対する姿勢や努力、外交官である使節として、愛される性格も持ち合わせていたことでしょう

当時、無事に目的地へ到着出来る確率は5割、とも言われた危険な航海に出ることへの度胸も求められたかもしれません

これは当時武士の子として生まれた少年たちに共通することですが、「死ぬ覚悟」を常に備えていた武士の子たちの落ち着きぶりは、海外からやってきた宣教師たちを感動させたそうです

中浦ジュリアンのお父さんは、大村家の家臣、小佐々氏の一族で中浦の領主・中浦純吉(なかうらすみよし)だったとされているので、彼もまた、武士の子としての気質を備えていたのだと思われます

中浦純吉、通称・甚五郎さんは大村純忠を守って戦死しています

当時、髷を切ることは相当の覚悟が要ることだったようで、剃髪することが条件であったセミナリヨは生徒を集めることに相当苦労したそうですが、甚五郎さんは熱心なキリシタンだったそうなので、子どもをセミナリヨに入れた可能性も大いにあったと推測されます

 

さて。そんなジュリアン

ヨーロッパの旅では、大きなエピソードを2つ、残しています

まずは、最初にイタリア半島に到着した際、トスカーナ大公の舞踏会に招かれた時のこと


絶世の美女と謳われたトスカーナ大公婦人と踊ったマンショ、口火を切ったマンショに続いて踊ったミゲル、そしてマルチノとジュリアンも舞踏会の広場に駆り出されました

その時、ジュリアンはひどく緊張していたのでしょう

ダンスのパートナーに老婦人を誘ってしまい、周囲からどっと笑われてしまったそうです


ちなみに、歴史の動きとはあまり関係の無いジュリアンの恥ずかしい失敗談がなぜ後世に伝わっているかというと

犯人はマルチノ

天正遣欧少年使節が、ヨーロッパ巡りを終えて再びゴアに立ち寄り、敬愛するヴァリニャーノ神父と再会した際

マルチノが舞踏会での出来事を話した内容が残っているのです

ヴァリニャーノは彼らのヨーロッパ見聞録をまとめ、天正遣欧少年使節の4人が語る西洋の事情を有馬晴信の血縁者であるレオと、大村喜前の弟・リノ(共に洗礼名)に語って聞かせているという“対話形式”の読み物にしています

ヴァリニャーノが自身の母国語であるイタリア語でまとめたと思われる原稿を、デ・サンデがラテン語に翻訳したこの本が今に残っているのです

ヨーロッパの魅力を伝えるためにヴァリニャーノが書いたものであり、日本に帰国する前の彼らと、日本にいる2人の少年の会話を創作しているので、当の本人たちが言った言葉がどれだけ入っているのかは不明ですが、「ジュリアン・舞踏会失敗談」のトーク部分は非常に4人がイキイキとして会話しており、本人たちの性格が伺えるエピソードとなっています

「初陣に出るようで緊張した」と舞踏会の緊張をマンショが語った後、マルチノが快活に「マンショとミゲルが踊った後だったので、僕とジュリアンはプレッシャーが和らぐハズだったのに…ね?」とジュリアンが老婦人を誘ってしまったことを暴露

それに対して、ジュリアンはどう反応したかというと

「自分が踊れないことがバレないように、わざと老婦人を誘ってご婦人の方を笑い者にしてしまったことになっていたら申し訳ない」と、お相手を心配する言葉を残しています

とても思いやりの深い少年だったのでしょう

ヴァリニャーノも、このやり取りを微笑ましく思って、書き残したのだろうと思われます


さぁ、はじまるよ!

мавокаとナラ タマキが芸術的な戯曲を書き下ろし、木村 香乃が舞台装置を駆使した最先端の演出をつけ、世界一、お洒落な俳優、女優がところ狭しと演じる世界に酔いしれろ! それが、三行文士的もてなし術

 

 

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