三行文士

原 マルチノ

永禄12年(1569年)頃、肥前国(長崎県東彼杵郡波佐見町)にて誕生

副使として使節の一人に選ばれました

ですがマルチノの出身地や家柄について、日本には詳しい資料が残っていません

彼の身元が明記されている唯一の史料は、ローマにありました

天正遣欧少年使節の4人は、ローマで「ローマ市民権」を与えられており、その議決書には、マルチノは「肥前国ハサミの首長の子」と書かれています

この公文書も細かく読むと若干の誤りがあったりしますが、海外の方が「肥前国ハサミ」という地名を思い付きで付けることは無いと思われるので、マルチノの出身地は波佐見で確定と見てよいでしょう

……遥か昔を辿るのは、ミステリー小説の主人公が一つ一つ証拠や証言を見つけて、真実に行き着こうとするかのようで、歴史文献を見る度にワクワク致します

 

さて

出身地が判明すれば、次のミステリーの解明への手がかりに

それはマルチノの身分と出生

歴史研究家の方が、波佐見の郷土資料から肥前の名家である「原家」の家系図を探し出し、原マルチノの父兄に当たる人を推測されています

それによると「原中務(ハラナカヅカサ)大輔純一(ダイスケスミカズ)」がマルチノのお父さんではないかとのこと

純一には家政という一子しか記録されていませんが、この家政は大村喜前(ミゲルの従兄弟)に仕えているので、もし家政に兄弟が居たとするならば、年齢的にその子がきっとマルチノ

また、キリシタン大名・大村純忠に仕えていた家臣の一族であれば、一家全員キリシタンとして洗礼を受けている可能性が強いので、次男坊が有馬のセミナリヨに入学していても不思議ではありません

天正遣欧少年使節の帰国後、彼らの身分が問題になった時にヴァリニャーノは『アポロギア』という反論書をしたためていますが、その中でマルチノのことを「大村の領主の兄弟と結婚している姉妹と、大村領の最良の城の主君で、大勢の家臣を持つ兄弟を持つ

また大村領主の主だった親族である」と書いています

なぜ、そんなマルチノが原家の家系図に残っていないのかと言うと、マルチノの兄と推測されている家政は、のちに起こる島原の乱を鎮圧した鍋島家の家臣になっています

マルチノが家政の弟だったとすると、有名なキリシタンである彼は家系図から抹消されてしまったのだと思われます

そんなわけで、日本側の史料は残されていませんが、マルチノは大村家と縁のある、身分の高い武士の子であったということでしょう

 

キリシタンであり、武士の子であるということは分かったマルチノですが、なぜ彼が天正遣欧少年使節に選ばれたのか?

セミナリヨの学生は皆、キリシタンで武士の子だったので、正使であるマンショ、ミゲルと違って「大名の血縁者」というステイタスが無い以上、副使のマルチノたちにはさらなる「選ばれた理由」が必要です

ヴァリニャーノと宣教師ルセナが残した書簡によれば、天正遣欧少年使節の少年たちは

「セミナリヨの一期生であること」と、「教養・礼儀・美しさ」が優れていること

を条件として選ばれた、とのこと

つまり、マルチノは成績が良くて礼儀正しい美少年だったから!!

……実際にヴァリニャーノが「美少年だったから選んだんだ♪」とは明記していないのですが(明記されていたら逆にビックリする)、1585年にグァルチェリが書いた『日本使節記』には、副使のマルチノとジュリアンについて、「信仰が篤く、思慮深く、稀にみる謙虚さと徳高さを備えていた」と記載されています

セミナリヨの生徒たちの中でも際立つ美点が、使節に選ばれた4人にはあったのでしょう

 

天正遣欧少年使節のメンバーでは最年少だったマルチノですが、8年以上の海外生活で語学才能を開花

日本に戻った時には既にラテン語を教える立場となっています

帰国の旅でインドのゴアに戻った際には、コレジオの盛大な歓迎会で長文のラテン語でオラティオ(演説)を披露

彼らがヨーロッパから持ち帰った最先端の技術・文明のうちの一つに「活版印刷機」がありますが、これによってマルチノの演説は早速印刷、出版されて絶賛されました

流暢なラテン語で、ゴアにいた西洋人を驚かせただけでは無く、その内容もルネサンスの思想や、アレキサンドロス大王にヴァリニャーノを例えた比喩表現など、教養に溢れた素晴らしいものだったのです

晩年にマルチノが翻訳した本からは、彼が日本語にも長けており、翻訳家としての才能も持っていたことが分かります

 

ちなみに、マルチノと共に出版活動に生涯を費やしたのは使節団の随員、コンスタンティノ・ドラード

印刷技術習得要員として旅に同行していた彼は、帰国後、波瀾万丈となる天正遣欧少年使節たちの中でも原マルチノとほぼ一緒に行動しています

ドラードは日本人の少年で、肥前国(長崎県諫早市)の出身であったとされていますが、日本名も身分も分かっていません

「ドラード=Dorado」とはスペイン語で「黄金」という意味なので、歴史研究家の中には、彼は日本人と日本にやってきたヨーロッパ人との間に生まれた子で、金髪だったことからその名が付いたのでは?と唱える人も

外国語に非常に長けていたそうですが、一方で日本語の読み書きはほぼ出来なかったという報告書も残されています

ですが、ドラードはヨーロッパで学んだ印刷技術で「マルチノの演説」を始め数々の本を出版して、知識の普及や、布教に務めました

マラッカで司祭に叙階され、晩年はマカオのセミナリヨの院長を務めています


さぁ、はじまるよ!

мавокаとナラ タマキが芸術的な戯曲を書き下ろし、木村 香乃が舞台装置を駆使した最先端の演出をつけ、世界一、お洒落な俳優、女優がところ狭しと演じる世界に酔いしれろ! それが、三行文士的もてなし術

 

 

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