千々石 ミゲル
永禄12年(1569年)頃、肥前国釜蓋城(長崎県雲仙市)にて誕生
ミゲルは、天正遣欧少年使節の中で一番身元がハッキリしていると言えるかもしれません
なにせ、キリシタン大名・大村純忠、有馬晴信の名代
純忠の甥で晴信の従兄弟という血縁関係があります
絶大な勢力を誇り肥前有馬氏の最盛期を創出した大名・有馬晴純の三男・直員(なおかず)が有馬氏の分家にあたる千々石家を継いでおり、この方がミゲルのお父さんです
有馬家を継いだのは晴純の長男・義直(よしなお)で、その息子が有馬晴信
晴純の次男は大村家に養子に出された純忠です
三兄弟全員、名字が違うのでややこしいですが、大名ともなると日本にも多くの史料が残されているので、それぞれと血縁関係のあるミゲルの出生についても確証が高いです
ミゲルの父、直員は釜蓋城城主でしたが、龍造寺家との合戦で落城
直員は戦死して、幼いミゲルは乳母に抱かれながら戦火を逃れて大村純忠の元に身を寄せたと伝えられています
純忠の影響によって洗礼を受けたミゲルは、有馬のセミナリヨに入学
そこで天正遣欧少年使節の一人に選ばれます
ヨーロッパでの華やかな旅路は他の三人と共に
ちなみに、ミラノの年代記作者・ウルバーノ・モンテはイタリアで少年たちと会い、ミゲルのことを「蜂蜜のように甘い柔らかな物腰の子」と表現しています
は、ハニー…!ホワホワした感じの子だったのでしょうか
ミゲルはあまり体が丈夫では無かったようで、ヨーロッパでの旅の途中に疱瘡にかかってしまったり、帰国の船で体調を崩したり、帰国後も勉学に支障が出る程病弱であったと伝えられています
ですが、ヴァリニャーノが執筆した『天正遣欧少年使節見聞対話録』では対話を引っ張っていく話の中心人物として描かれています
この本は、ゴアで天正遣欧少年使節と再会したヴァリニャーノが4人の旅話を聞いて、対話形式にまとめたもの
彼らの帰りを日本で待っていた2人の少年に、天正遣欧少年使節がヨーロッパの素晴らしさを語り聞かせる内容となっています
2人の少年は、リノとレオという有馬と大村家の子息で、ミゲルの従兄弟
語り聞かせる相手が年下の親戚だという設定が影響してるのかは分かりませんが、ヴァリニャーノが描くミゲルは、トークを引っ張るMC能力抜群
非常にイキイキとして聡明です
実際に彼らが残した手記では無いので、書き手のイメージによるものも大きいかもしれません
ですが4人を育てたともいえるヴァリニャーノがそれぞれに対して抱いていたイメージがよく現れています
しかし、本の中でヨーロッパの素晴らしさとキリスト教を讃えていたミゲルは、帰国してから10年後にはイエズス会から退会しています
1590年に帰国した直後は、他の3人と共に司祭になるため天草にあった修練院(コレジオ)で勉学を続け、イエズス会にも入会していましたが、1601年には除名されています
学校を辞めた理由には、マカオ留学の選抜に漏れたからとも言われていますが、その際の留学メンバーからは、原マルチノも選抜漏れしています
成績優秀者のマルチノも落ちていることで、この選抜には様々な憶測がありますが、少なくとも「4人の内で自分だけ」とミゲルが思う理由は無いハズ
また、イエズス会から去ったことが、必ずしも「教えを棄てた」とはなりません
信仰心をミゲルがいつどこで棄てたのか、また棄てたという確固たる証拠は残っていません
ただ、ミゲルが千々石清左衛門と名を改めて妻を持ち、大村喜前に仕官したこと、伊木力(現:諫早市多良見町)に領地を与えられたこと、そして喜前に棄教を進言したとされていることは日本の史料に残されています
その後、喜前から疎まれて暗殺されそうになったために有馬晴信の元へ逃れ、そこでも有馬家の家臣から恨まれて重症を負わされ、その後は長崎で暮らしていたという目撃情報が残るのみ、とか
ミゲルがもし喜前のアドバイザーとなっていたならば、なぜ疎まれたのか?
有馬家でも恨まれたのはなぜか?
何人かの宣教師が残した証言も「有馬で家臣に殺された」「長崎に生きている」と、食い違っています
2003年、伊木力にて、ミゲルの息子・千々石玄蕃によって立てられた石碑が発見され、それが「ミゲルの墓」では無いかと言われています
その石は、近隣の方々から「玄蕃の墓」として守られていましたが、研究者の方の見解で、「玄蕃」の名前が墓石の裏側に彫られていること、表には2人の戒名と没年月日が刻まれ、それが夫婦と思われることから、千々石ミゲルの墓では無いかと発表されました
墓石は、伊木力から海の向こう側に見える大村を眺められるように立てられています
それが「恨みを持って死んだので、睨みつけるように立つ」とも言われますが、その周辺はかつてキリシタンの墓地があったことから、ミゲルは教えを棄てていなかったのではないか、とも
ミゲルの晩年は、謎に包まれたままです