三行文士

伊東 マンショ

誕生:永禄12年(1569年)頃、日向国都於郡(宮崎県西都市)にて誕生

お父さんは伊東氏の家臣、伊東祐青

お母さんは日向伊東氏第10代当主・伊東義祐の娘、町の上

 

伊東氏は代々、鎌倉時代に祖先が源頼朝から賜った日向国を領地としておりましたが、マンショが8歳の頃に薩摩(鹿児島県)の島津勢から侵入を受け、一族は親類関係にあった大友宗麟を頼って豊後国(大分県)まで逃げ延びます

雪の中、山を越えての逃避行は相当険しいものだった様子

豊後にたどり着いてからも、遠縁に過ぎないマンショたち一家は冷遇され、マンショはほぼ孤児となっていたと伝えられています

ヨーロッパでの「天正遣欧少年使節」の活躍ぶりを見ていると主席正使として華やかな役目を担っていることが多いマンショですが、小さい頃は相当苦労していた模様

そんな中、長崎から豊後に赴任してきていたペドロ・ラモン神父と出会い、キリスト教を知り洗礼を受けます

ちなみにこのラモンさんが、天正遣欧少年使節が帰国する際に「あいつら、教皇様に歓迎して頂く程身分高く無いっすよ!」と教皇に訴えの(?)手紙を送った人です

貧しかった頃のマンショを知っている人なので、根拠のない嫌がらせでは無かったのでしょう

ヨーロッパでは使節の4人が「王子」と間違って伝わったりもしたので、ラモンさんはラモンさんなりに真実を伝えようとした結果の手紙だったと思われます

とはいえ“「天正遣欧少年使節」偽り説”を広めるような手紙にヴァリニャーノ神父は激怒

ラモンの手紙をフォローするための手紙を大慌てで教皇宛に書き送っています

この頃、秀吉がバテレン追放令を発した事もあり、フォロワーノ神父、気苦労が絶えませんでした

 

ともあれ、ラモンによってマンショは「マンショ」となり、有馬に建設された「セミナリヨ」の第一期生として入学

「セミナリヨ」は良家の子息しか入学出来なかったため、その時点ではもうマンショの血筋は明らかになっていたと見るか、それともヴァリニャーノが「天正遣欧少年使節」メンバーを探している時に大友宗麟の血縁者であることが判明したのか…詳細は不明です

一説によると、マンショの叔父にあたる伊東祐勝(伊東義祐の次男)が正使候補として挙げられていたものの、彼は安土(滋賀県)のセミナリヨに居たために船出に間に合わず、マンショが代役になったのだとも言われています

しかし代役だったとしても、主席正使としての務めを果たせると見込まれたマンショは、きっと優秀な少年だったのでしょう

事実、使節として向かった先々で、マンショは立派に役目を果たしています

ヨーロッパ各地での謁見で口上を述べるのは、主席正使であるマンショの役割でした

シスト5世の戴冠式では、教皇が手を洗うための水を注ぐ大役(本来は君主や諸侯が担う役目)を仰せつかっています

フェリペ2世と謁見した時には、フェリペが草鞋に興味を持っていることに気がつくと、さっと自分の履いていたものを脱いで差し出したり、イタリアでトスカーナ大公が開いた舞踏会で女性から誘われた時は、まず付き添いのメスキータ神父に許可を仰ぎ、その謙虚さと配慮でヨーロッパの人々を感動させました

自身が「初陣に挑むようだった」と武士の子らしく語ったその舞踏会では、習ったことも無かったダンスに挑んで奮闘

…ちなみに一緒に踊ったトスカーナ大公妃・ビアンカは“絶世の美女”と後世に伝えられており、しかもナイスバディだったと言われています

 

マンショの本名は「祐益(すけます)」というのが定説ですが、実は「父が“伊東修理亮(スケ)と(日向)国王(伊東義)益(マス)の妹の息」と書かれた資料が残されているのみだそうで、本名は不明だそう

「修理亮」はお父さんの官職です

マンショのお父さんが子どもたちの無事息災を祈願して奉納したお堂が今に残っており、そこからマンショに該当する男児の名前を探すとすると、「虎千代麿」が濃厚だそうです


ヨーロッパに残る文献の当て字は「満所」です

 

近年、ルネサンス期のイタリア画家ティントレットの息子、ドメニコ・ティントレットが描いた「伊東マンショ」の肖像画がイタリアで発見されました

「天正遣欧少年使節」が北部ベネチアを訪問した際、描かれたものだそうです

さぁ、はじまるよ!

мавокаとナラ タマキが芸術的な戯曲を書き下ろし、木村 香乃が舞台装置を駆使した最先端の演出をつけ、世界一、お洒落な俳優、女優がところ狭しと演じる世界に酔いしれろ! それが、三行文士的もてなし術

 

 

Copyright 2015 (C)SANGYOBUNSHI. All Rights Reserved