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【社会】

旧陸軍軍医「捕虜虐待」で処刑 戻らぬ名誉 悲劇の「戦犯」

桑島恕一さんの部下の証言が収録されていた「戦犯裁判の実相」

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 戦時中に米兵捕虜を虐待したとして米軍の軍事裁判で絞首刑となった旧日本陸軍の軍医がいる。桑島恕一(じょいち)大尉で、当時の部下らの証言からは、捕虜収容所の医療環境改善などに奔走した姿が浮かんだが、裁判では一度も陳述の機会を与えられることはなかった。「加害者」として裁かれた七十年前の悲劇は、今も遺族らに重くのしかかる。 (編集委員・吉原康和)

 国立国会図書館に所蔵のBC級戦犯の生き残りの手記や証言集「戦犯裁判の実相」を、日本ウェルネススポーツ大学の工藤美知尋(みちひろ)教授(日本海軍史)が分析した。

 桑島さんは一九四三年一月〜四四年三月、旧満州(中国北東部)の奉天捕虜収容所付の軍医として勤務。終戦後の四六年五月に戦犯容疑で逮捕され、同年九月十六日、中国・上海での米軍裁判で絞首刑の判決を受け、四七年二月一日に執行された。三十歳だった。

 証言集の記述などによると、裁判では「医薬品の供与、および治療、手当などを怠り、多数の捕虜を死亡するに至らしめた」ことが虐待行為に当たるとされた。米国人の官選弁護人が一人付いたが、十日間ほどのスピード審理で、弁護人は「発言することは不利になるとも有利にならぬから」と一言も発言させなかったという。

 証言集に収録の桑島さんの直属の部下、三木遂中尉(故人)の提出資料によると、四二年十一月に収容所に移されてきた約千三百人の米兵捕虜の大半は、栄養失調やマラリアなどに苦しんでいた。

 桑島さんは軍医や衛生兵などを大幅に増員させたほか、軍首脳に直談判して、収容所の医務室を給食や入院患者の診療も可能な病院並みの施設に改善させるなどした。

 この結果、三木さんは「数多くの捕虜が快癒して日本の敗戦後、健康で故国に還(かえ)っている。桑島氏は捕虜一同から、感謝の誠心をささげられるべき救命者だった」と記している。

 陸軍病院の上司だった小林茂さん(故人)も「捕虜たちからいくたびか感謝状をもらい、それが医務室に飾られてあるのを私はこの目でしばしば見た」などと、遺族に語ったという。

 工藤教授は「BC級戦犯の悲劇の典型例のひとつ。米軍占領初期の軍事裁判では、日本に対する『見せしめ』や『報復』の雰囲気が強く、遺族側も連合国軍総司令部(GHQ)や世間の目をはばかって名誉回復の声を出しにくかったのだろう」と話す。

 <BC級戦犯> 第2次大戦後、「通例の戦争犯罪(戦争の法規または慣例の違反)」や「人道に対する罪」に当たるとして、連合国から訴追された元軍人ら。主に占領地の住民や連合国の捕虜への殺害、虐待行為が問われた。約5700人が起訴され、後に減刑されたケースも含めて約1000人が死刑判決を受けたとされる。日本の軍人・軍属らは横浜や上海、マニラなど各地の軍事法廷で裁かれた。

 

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