アジア太平洋戦争の終結は、日本では8月15日と記憶され、毎年その日で歴史回顧の季節が終わったかのようになる。

 だが、日本が正式に連合国に降伏する文書に調印したのは9月2日。そちらを第2次大戦終結の節目とみる国もある。

 日本に侵略された中国は、翌9月3日を記念日としている。今年のその日、習近平(シーチンピン)政権は「抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年」と題した行事を開く。北京・天安門周辺で大規模な軍事パレードをする。

 どの国の節目でも、あの戦争の歴史を振り返るときに大事なことは何かを考えたい。

 それは必ずしも戦勝国と敗戦国の区別ではあるまい。その立場を超え、70年前までとその後の歩みから何を学ぶかである。

 人命が粗末に扱われた時代を過去のものとし、一人ひとりを人間として尊重する人権思想の基点を確認することである。

■日本と中国の一致点

 中国政府は行事への安倍首相の出席を望んだが、実現しなかった。事情がどうあれ、日中首脳の同席が想像しにくい理由の一つは、「抗日戦争」という名に刺激的な響きがあるからだ。

 中国の公式説明では、この行事名は今の日本ではなく、過去の日本軍国主義を指すとしている。アジアに多大な損害を与えたことへの反省は日本国内でほぼ共有され、日中間でも実はおおむね認識が一致している。だとすれば、行事名に過敏になる必要はないのかもしれない。

 だが、90年代後半以降、中国政府が歴史を手段にして、対日批判を強めたのも事実だ。今回の行事について中国側が「特定の国に対するものではない」といっても、額面通り受け取るのは難しい。

 日本側の政治家らにも、歴史認識をめぐり中国に疑念を抱かせる言動が少なからずあった。互いに疑心暗鬼を深める曲折をたどった近年の日中関係を振り返ると、歴史をどう学ぶかという記憶の問題とともに、教訓を今にどう生かすかという実践の難しさを痛感させる。

 そのうえで気がかりなのは、いまの中国が歴史を強調するばかりで、古い国家統治から脱皮しない危うさである。

■人権理念を掲げて

 中国が言う「反ファシズム」もまた、70年前までの戦争を意味づけるキーワードである。

 確かに第2次大戦は、反ファシズムの性格を帯びた。国家を優先して市民を抑圧し、侵略に及んだ日独伊に対する旗印だ。だから連合国側が人権の戦いとして解釈するのは必然だった。

 その理念づくりを主導したルーズベルト米大統領は、ドイツの脅威を前にした41年初めに、めざすべき「四つの自由を土台とする世界」を議会で語った。言論、信教、欠乏からの自由、恐怖からの自由である。

 これが後に国連憲章や世界人権宣言、さらに国際人権規約へとつながり、国際社会の精神的支柱となる。日本国憲法にも人権規定が盛り込まれた。

 そこには勝者による歴史の正当化という側面がある。だが、理念自体の意義は重い。

 中国も、連合国の一員として国連憲章づくりを含む過程にかかわった。中国歴史学界の重鎮、袁偉時氏は「中国は70年前の理想を忘れてはならない」と呼びかけている。

■大国に問われる姿勢

 だが、今の中国国内で人権が保障されているとは言えない。

 貧困を劇的に減らしてきたのは事実だが、言論や宗教活動を制限し、弁護士や学者を簡単に拘束する。習政権下での抑圧ぶりは悪化する一方だ。

 中国が外交で人権を掲げないのは国内問題と表裏一体だからだ。今年2月、国連安保理であった国連創設70年記念の公開討論で王毅(ワンイー)外相が強調したのは「各国の主権、独立性の尊重」で、人権への言及はなかった。

 英国が「主権の名のもとに人権抑圧が放置されてはならない」、欧州連合が「安保理は基本的人権の擁護に貢献できる」と発言したのとは対照的だ。

 国際社会は、人権を内政問題と片づける古い思考から脱している。紛争や災害のときなど、政府間では、主権か人権かという悩みはいまも残るが、市民の間では国境を超えた人権意識が着実に広まっている。

 それが、先の大戦から70年をへて到達した国際社会の姿であり、その潮流は止まらない。

 中国は、戦後も国内の動乱が続き、主権の安定をめざす時期があった。しかし、いまや世界第2の大国であり、他国からの侵略など想像しがたい。

 それでもなお、人権より主権にこだわる習政権の姿勢は、それこそ70年前までの全体主義にも通じる統治ではないのか。

 かつての戦勝を記念するとの名目で、道路や地下鉄駅、空港を閉鎖して市民生活を滞らせ、街頭で最新兵器を誇示することにどれほどの意味があるのか。

 過去に学ぶことの意味がここでも問われている。