玩具の復讐
繊細侯爵の日記帳
――――十冊目
【971年 薔薇の月7日
ついにこの日が来てしまった。まさか、陛下自ら無理に見合い話を勧めてくるとは。
私が結婚? 冗談じゃない。いくら陛下直々のご命令でも、そればかりはありえない。
971年 薔薇の月10日
すでに外堀を埋められていた。くそ、あの人たらし王め。こういう時だけは仕事が早い。
何故、その有能さを書類仕事に生かしていただけないのだろうか。まったくもって理解に苦しむ。
そもそも、私の将来を心配する前に、まず自分のお妃をお決めになられて欲しいものだ。
971年 薔薇の月15日
相手はアークライト公爵家の長女だった。名をキャサリン=アークライトという。……まさか格上だったとは。これでは断る事もできそうにない。
しかもアークライト家の家督は長男が継ぐため、先方がこちらに嫁ぐ事を前提とした話を進めるほどの周到ぶりだ。
しかし、相手は私よりも七つ年下。いくら王の紹介といえ、先方から断りを入れてくるだろう。
971年 薔薇の月17日
何故だ。何故先方はあんなにも乗り気なんだ。
私はもう二十四、行き遅れと呼んでも差し支えない年齢だぞ。同い年の淑女ならばまだしも、十七という結婚適齢期の娘にあてがわれるような男ではない。
そもそも、我が侯爵家と姻戚になったところで先方が得られる利益など微々たるものだ。実に怪しい。
そうだ。この見合い話には、何か裏があるに違いない。
971年 薔薇の月19日
簡単に調べてみたが、アークライト公爵家に後ろ暗い事はこれといってなかった。あくまで法に反するようなものは、だが。
こと金に関しては悪い噂ばかりが出てくる。なるほど、これでは確かに私の家と繋がりを持ちたいわけだ。娘を差し出す事で援助でも期待していたのだろうか。
それではまるで身売りだな。私も随分と侮られたものだ。
971年 薔薇の月20日
見合い当日。印象は最悪。
それでもあえて優しく言うなら、隠し事のできなさそうな女だと思った。
……初対面の相手に向かって、「まぁ! まるで戦記物に登場する敵方の腹黒軍師のようですわ!」などと言うのか、普通。
「うさんくさい笑顔がとっても素敵ですわね!」とも言われた。悪かったな。
この根暗そうで神経質そうな顔は生まれつきだ。そして私が根暗で神経質なのもまた事実。そんな事はわざわざ他人に指摘されるまでもなく知っている。放っておけ。
971年 薔薇の月30日
やたらといい笑顔を浮かべ、陛下は先日の見合いは成功したと言ってきた。あれのどこが成功だ。大失敗の間違いではないか?
どうやら先方は、今度二人きりで会う約束をしたいそうだ。断りたいが、相手は腐っても公爵家。上位の貴族に逆らってもろくな事はない。渋々ではあるが了承した。
どうせそのうち先方も諦める事だろう。同年代の、もっと条件のいい男が見つかればそちらに乗り換えるに決まっている。それまでの辛抱だ。
971年 睡蓮の月5日
約束通り、キャサリン嬢と二人きりで会う。
本当に散々な一日だった。見合いの日は、あれで相当猫を被ったほうだったのだろう。
キャサリン嬢は同年代の乙女のように夢見がちな事は一切言わない。しかしその代わり、言ってはならない事をずけずけと言う。
あれはだめだ。あの娘は色々な意味でまずい。正直な事は美徳であるが、馬鹿正直は馬鹿だから馬鹿と言われるのだ。それを彼女は知らないのだろうか。
適齢期だというのに、あれでは男のほうから逃げていくだろう。少なくとも私はごめんだ。胃がもたない。
……今日はもう日記を書く気力がない。早く寝よう。そして今日の事は忘れよう。
971年 睡蓮の月12日
まずい。どうやら陛下は、本気で私を結婚させようとしているらしい。
キャサリン嬢との仲はどうか、そればかり聞いてくる。最悪ですと正直に答えたら、それなら別の令嬢との見合い話を持ってこようと返されてしまった。
いくら昔馴染みとはいえ、いち宰相補佐の妻よりも、まずご自分の奥方の事を考えて欲しいものだ。
971年 睡蓮の月29日
昨日も見合いで今日も見合い、そしてもちろん明日も見合い。いい加減にして欲しい。
私にはまだ結婚の意志がないと、どうすれば陛下はわかってくれるのだろうか。
政略結婚だから嫌なのか、と陛下に言われてしまった。だが、それはひどい誤解だ。
政略結婚、大いに結構。むしろ、恋愛結婚などをする気は欠片もない。どうせ結婚するならば、政略的なものに限る。
971年 雛罌粟の月13日
子爵家令嬢、伯爵家令嬢、大商人の長女……もううんざりだ。見合いなどもうしたくもない。
幸いにしてどの見合い話もこちらのほうが家格が上だったので、丁重にお断りさせてもらった。
何が不満なのだと陛下には言われたが、しいて言うなら結婚そのものが不満だ。
971年 雛罌粟の月17日
今日の夜会で約一ヵ月ぶりにキャサリン嬢と会った。何だか不機嫌そうだったが、気のせいだろうか。
それにしても、はしたないにもほどがある。まさか女の側から男を誘うなど。王国淑女としてのたしなみはどうした。
淑女を辱めるわけにはいかないと、一応誘いは受けたが……私がどうして壁の花をしているか、彼女もあれでよくわかってくれただろう。
ただ、彼女はダンスがとても上手だった。私が犯した失敗をすべてカバーできるとは、相当の実力者なのだろう。……ああ、婦女子にリードされるなど、王国紳士とした事が情けない。
971年 雛罌粟の月20日
宰相閣下がついに前線を退く事を決意した。後任に選ばれたのは私だ。まだ若いからと反発する声もあるが、それらはすべて私のほうで抑えさせてもらった。この程度で閣下のお手を煩わせるにはいかない。
閣下は私に位を譲って、田舎でのんびり余生をお過ごしになられるらしい。閣下はまだご健勝ではあるが、王都の空気よりも田舎の新鮮な空気を味わって暮らしたいそうだ。
閣下には何かと目をかけていただいた。実の父親よりも、閣下のほうが父親のようだったほどだ。
その閣下に「王都を発つ前に、一度でいいからお前の嫁の顔が見たかった」と言われてしまっては……。
私を息子のように扱ってくれた閣下だからこそ、私の妻ともなれば義理の娘と同じなのだろう。
できればその願いは叶えてさしあげたいが、こればかりは私の一存ではどうにもならない。相手がいないことには始まらないだろう。
971年 桔梗の月1日
引き継ぎは滞りなく行われた。今日から私がこの国の宰相だ。
前宰相閣下の名に恥じぬよう、誠心誠意努めなければ。
971年 桔梗の月10日
不思議と陛下が縁談話を持ってこなくなった。以前のしつこさが嘘のようだ。
……まさか、私を結婚させようとしていたのは陛下ではなく前宰相閣下だったのか?
971年 桔梗の月12日
確かに陛下は縁談話を持ってこなくなった。しかし、他の者から持ちかけられるとはどういう事だ。それほどまでに、侯爵家当主にして宰相夫人という肩書が魅力的なのだろうか。
しかも公の場に出れば、年かさの行きお……いや、婦人……違うな、令嬢達だ。彼女達のほとんどが未婚なのだから。未亡人もいるが、その数は少なかった。
とにかく、令嬢達がしつこくつきまとってくる。はっきり言って迷惑だ。何故、陰口を叩く者に対して好意を持てると思えるのだろう。やはり、欲望は人を盲目にするというのは正しいのかもしれない。
陰で人の事を冷血だの悪魔だのと散々言っておいて、好かれると思うほうがおかしいと思うのは私だけか? 私が気づいていないとでも思っていたか? しょせんはただの陰口、別に気にしてなどいないがな。
……ああ、だが、婚期を逃した仕事人間というのは陰口ではなく適切な評価だな。正確に言えば、婚期を『逃した』のではなく婚期を『見送った』のだが。
それはともかく、その言葉を言われた時ほど「貴方達には言われたくありません」と言いたくなった事はない。たとえ真実でも、言われてもいい相手と言われたくない相手がいるものだ。
971年 桔梗の月17日
いくらその気がなくても、付き合いというのは断れない。上級貴族に勧められるがままに、今まで様々な令嬢とお茶を飲んでみた。
しかし、どの女性もぴんと来ない。彼女達にはもっとふさわしい男がいるだろう。
問題は、この状態がいつまで続くかだ。連日女性と楽しくもないお茶会を開かされているが、そろそろ話題がなくなりそうだ。
971年 紫苑の月2日
今日の夜会にもキャサリン嬢がいた。だが、以前とは違って庭園の隅のほうで丸まっている。
そこでその場から離れていれば、あのような面倒事には巻き込まれずに済んだだろう。だが、淑女を放っておく事などできるはずがない。私は思わず夜会を抜け出し、キャサリン嬢のもとに向かった。
聞けばキャサリン嬢は夜会の参加者である男達に、年上の男に遊ばれただけの小娘だの、男に捨てられた惨めな女だの、金さえあれば誰とでも寝るような売女だのと蔑まれたらしい。年頃の娘にそんな事を言うなど、随分と酷い男もいたものだ。王国紳士の風上にも置けない。
正直にそう言えば、誰のせいだと言われてしまった。そんな事を私に言われても困る。一体、誰のせいなんだ?
971年 紫苑の月8日
女性の嫌なところを見てしまった。慌てて仲裁に入ったが、あのまま放っておいたらどうなっていた事か。
まったく。寄ってたかって一人の若い娘をいびるなど、王国淑女としての誇りはどこにいったのだ?
多勢に無勢とはいえ負けじと応戦していたキャサリン嬢もキャサリン嬢だが、あの場合は仕方ないと言えるだろう。
たとえ相手が礼を欠いた振る舞いをしても、寛大な心でそれを許すのが王国紳士、王国淑女のあるべき姿だ。だが、物事には限度というものがある。
971年 紫苑の月10日
先日のキャサリン嬢の言っていた事がわかった。どうやら宮廷人は、私と彼女の仲を噂していたらしい。
一体どこからそんな噂が……まさか、二ヵ月前の夜会が原因か? 確かにあの時、私は彼女と踊った。だが、それっきりだったはずだ。
第一、あれは縁談が破談になってから一月も経ってからの事だぞ? 私と彼女の間には何の関係もないではないか。
当然、弄んだつもりも捨てたつもりもない。私に対してはもちろん、彼女に対しても失礼だ。
971年 紫苑の月12日
宮廷内の空気が悪い、と侍女長に言われてしまった。そんな事を言われても困ると思ったが、どうやら私も無関係ではないらしい。
聞いたところによると、もともとキャサリン嬢は人に好かれる性質ではなかったようだ。……思った事をずけずけと言うような令嬢が、裏と表を使いわけなければならない社交界で煙たがられないほうがおかしいか。
それに、彼女は公爵令嬢ではあるが、彼女の盾となるべき家には斜陽の影が落ちている。逆に嘲笑の……迫害の理由を与えてしまった事だろう。
そんな中、雛罌粟の月に開かれた夜会で、彼女は私と踊った。夜会に参加しても壁の花を貫いていた私と、だ。その事が未婚女性の心に火を点け、キャサリン嬢に対する風当たりをより一層強くさせた……らしい。
どうやら、私は相当な珍獣扱いをされていたようだ。なんだ、壁の花が次の夜会で踊るか踊らないか、踊るとしたら誰となのか、賭けごとでもしていたのか? それで大損を被った令嬢が、八つ当たりよろしくキャサリン嬢に怒りの矛を向けていると?
それとも、女性が男をダンスに誘ったというのが、いきお……お局……ご令嬢の癪に触ったのだろうか。
確かに例外的ではあるし私も驚いたが、彼女達も妙なところで保守的だな。女性の社会進出だとか、男女差別の撤廃だとか、よくそういう事を声高らかに言っているというのに。
それはともかく、キャサリン嬢に対する仕打ちは不当なものだ。早々にどうにかしなければ。私も原因の一端を担っているというのなら、私がなんとかするしかあるまい。
971年 紫苑の月20日
解決策が思いつかずに悩んでいると、逆に陛下に心配されてしまった。
陛下のお手を煩わせるほどの事でもないと言い渋るが、いいから言えと強要される。
キャサリン嬢の境遇について語ると、「お前がいつまでも独りでふらふらしているのが悪い」と言われてしまった。
解せない。
971年 紫苑の月23日
陛下がおっしゃった事について、私なりに考えてみた。
もしやあのお言葉は、キャサリン嬢と結婚して彼女を守れという意味だったのではないか?
彼女が傷つくのは私のせいでもあるわけだし、私が彼女を守るのは理に適っている。だが、そこに私達の意志はない。
一度キャサリン嬢と腰を据えて話し合う必要があるかもしれない。とはいえ、正式な理由もないのに未婚の男女が二人きりになるというのも何かと体裁が悪く、かといって他人に聞かれるのはキャサリン嬢も気まずいだろう。
不本意ではあるが、私がキャサリン嬢を軽く扱っているのではないという証明のためにもう一度縁談の場を設ける必要がある。
971年 紫苑の月27日
一度破談にしたくせに再び縁談を申し込むなど、厚かましいにもほどがあるだろう……と自分でも思っていたが、意外なほどにあっさりと公爵家は食いついてきた。
やはり、先方は金策に困っていたのだろう。様々な名目を並びたてられ、決して少なくない額の金を要求された。
……破談したと言っても、そもそも私達は婚約などしていない。見合いをして一度断っただけだ。それだけで慰謝料が必要だなどと初めて聞いた。これが本当なら、世の男達はたちまち破産している事だろう。だが、払えないほどではない。
971年 菊の月1日
キャサリン嬢と二回目の見合い。
一回目の見合いと同じ、キャサリン嬢に好き勝手に言われるだけの日になりそうだった。
しかし今日は私も負けじと言い返したため、今回は言われっぱなしで終わる事はなかった。
……そのぶん、喧嘩別れのようになってしまったが。
さっそく彼女との関係の改善を決めた事を後悔する。私が何もしなくとも、彼女は生きていけるのでは?
971年 菊の月2日
さすがに言いすぎたかと思い、手土産を持ってアークライト家に行こうとした……が、行けなかった。キャサリン嬢が私の家に来るほうが早かったからだ。
しかも、今日の彼女は昨日とは打って変わって別人のようにしおらしい。驚きのあまり、思わず「金づるの機嫌を損ねないように、とお父上に言われたのですか?」と嫌味を言ってしまったが、キャサリン嬢は何も言わずに俯くだけだった。
なんなんだ、あの娘は。実はキャサリン嬢には、双子の姉妹か何かがいるのか?
971年 菊の月8日
だんだんキャサリン嬢との接し方がわかってきた。キャサリン嬢は、嘘がつけないわけではない。嘘をつきたくないのだ。
どうやら彼女は、本心からの言葉でなければ何を言っても相手には届かないと思っているらしい。愚直、としか言いようがないが……。
そんな彼女だったからこそ、社交界で異端扱いされていたのだろう。社交界というのは、いわば虚構の言葉を武器にして渡り歩く戦場なのだから。
971年 菊の月13日
そういえば、私にあけすけとものを言ってくるのは彼女ぐらいのものだという事に気づく。
誰も彼もが虚飾の言葉しか吐かない中、彼女の言葉に嘘はなかった。
時と場合、そして相手はわきまえるべきだろうが、彼女のその素直さは美徳と呼ぶべきだろう。
971年 菊の月20日
彼女との清らかな関係を続けるにも周囲の目が痛くなってきた。関係の進展を求める声が日に日に聞こえてくる。
私ももういい年だ。それに、いつまでも年頃の乙女の時間を無為に奪うわけにはいかないだろう。
彼女さえそれでいいのなら、そろそろ腰を落ち着けるのも悪くないかもしれない。彼女の名に傷をつけたのは私であり、彼女の時間を奪っていたのもまた私だ。王国紳士たる者、その責任ぐらい取れずにどうする。
971年 水仙の月3日
そろそろ頃合いだと思って注文していた指輪が完成した。
これで私は公爵家との繋がりを得て、彼女は実家に莫大な支度金を贈れる。
いくらその栄華も過去のものとはいえ、アークライトもかつては名門に数えられた一角だ。アークライトの名は、私にとっても決して悪いものではない。
それに、アークライト家を通して他の公爵家と友誼が持てるなら、それに越した事はないのだ。アークライト家が傾きかけていても、かつての縁故を辿っていけば力のある大貴族に辿り着けるだろう。
971年 水仙の月12日
公爵め、なかなかこちらの足元を見てくる。
一体、どれだけ娘の値段を吊り上げれば気が済むんだ?
971年 水仙の月25日
婚礼の儀は年が明けてから執り行われる事になった。長かったが、ようやくこちらの用意が整った。しかし先方の準備にはもう少し時間がかかるだろう。実際に式を挙げられるのは香雪蘭の月あたりだろうか。
少なくとも公爵家に支払った金のぶん、君を大切にすると誓おう。
そう言うと、彼女はむくれながら同じ事を私に言ってきた。「わたくしに支払われたお金のぶんだけ貴方に尽くします」だそうだ。
一生かかっても元が取れるか怪しいな。そう返したら、「それならわたくし達は一生添い遂げなければなりませんね。それでも足りないのでしたら、来世でもお傍にいさせていただきます」と笑われた。
……どうやら彼女と送る生活は、思ったよりも退屈しないもののようだ】
――――十一冊目
【972年 待雪の月7日
愛だの恋だの、人々はみな知ったような口でくだらない事を言う。しかし、それで私の幼年時代は不幸になった。
恋愛結婚の果てに結ばれた両親は、熱が冷めた途端にあっさりと互いの事を厭うようにってしまった。結婚前に相手に盲目になっていると、熱情が消えると同時に相手の悪いところばかりが見えるようになるらしい。
挙句、母は外に愛人を作って出ていき、父は娼館に入りびたり。彼らのせいで傾きかけた家を立て直すのに、私がどれだけ苦心したと思っている。十八で父を追い出して当主の座に座ったあの苦難の日々は、忘れようにも忘れられない。
政略結婚こそが正しい夫婦の形だ。少なくとも私にとっては、そうに決まっている。最初から愛がないと割り切っていれば、結婚生活も楽になるのだから。
私達は利害の一致で結ばれた関係だ。キャサリン嬢は金と後ろ盾が、私は位が上の貴族との繋がりが欲しかった。そこに愛などありはしない。愛など芽生える理由がない。だから、私が彼女を愛する必要はない。
愛さなくていいから、当然愛されなくてもいい。そう考えると、不思議とキャサリン嬢との結婚も少しは前向きに考えられる気がした。不安が取り除かれたような、そんな感覚だ。
972年 待雪の月10日
キャサリン嬢の事をキャシィと呼ぶようになったが、だんだんその呼び方に慣れてきた。
うむ、悪くない響きだ。
972年 待雪の月13日
私がキャシィを呼び止めると、いつだって彼女は「デニス様、どうかなさいました?」と小首をかしげる。
……彼女に私の名を呼んでほしいから用もなく彼女の名を呼んでいるなどと、口が裂けても言えない。
誰かに名前を呼ばれるというのはいいものだな。たまにはこういうのも悪くない。
972年 香雪蘭の月1日
結婚式当日。前宰相閣下からありがたいお言葉を頂く。
花嫁衣装に身を包んだキャシィが綺麗で思わず見とれてしまった。
それを認めるのが恥ずかしく、心にもない言葉を吐いてしまったが……反省しなければ。
972年 香雪蘭の月13日
政務が忙しい。
もう何日も家に帰れない。ここは宮廷の執務室だというのに、まるで私の私室のようだ。
こんな時でも日記を書いているのかと思うと、何だか笑えてくる。
972年 香雪蘭の月17日
おかしい。私は新婚ではなかったか?
たまりにたまった書類が屋敷に帰してくれる事を許さない。
誰だ、ここまで書類をため込んだ奴は。
972年 香雪蘭の月29日
原因だった文官に減俸処分。するべき事を怠っていたのだから当然だ。
972年 菫の月10日
ようやく仕事に片がついた。これでようやく屋敷に帰れる。
972年 菫の月15日
今まで不義理だったぶん、しばらくキャシィのわがままに付き合ってやる事にした。
遠出というのは疲れるが、なかなかどうして悪くない。
972年 雛菊の月17日
何故、親戚づきあいというのはああも神経を使うのだろう。
これなら他国の使者と話していたほうがましだ。
972年 雛菊の月19日
陛下がついにお妃をお迎えになった。陛下のご成婚に国中が沸く。
お相手は皇国の第一皇女、ルゥリ姫。濡れ羽色の髪が美しい少女だ。お二人ならばよき夫婦となられる事だろう。
これで皇国との繋がりがより密なものになった。ルゥリ姫が祖国からお連れになった侍女や騎士達も、我が国の有力者と結ばれてくれたならなおいいのだが。
972年 鈴蘭の月10日
キャシィには悪いが、やはり私はアークライト家の面々が嫌いだ。
こればかりはどうしようもない。彼女との結婚は間違いだったかもしれない。
972年 薔薇の月7日
実家との縁を切ろうか、とキャシィがそれとなく言ってくる。
彼女にそこまで気を使わせてしまうほど、私の心はわかりやすかっただろうか。
972年 薔薇の月18日
キャシィが実家と縁を切ってしまったら、私達の結婚は政略的な意味を失う。それでは困るのだ。
私は恋愛結婚などしない。私がしたのは政略結婚だ。
972年 睡蓮の月10日
なんとかキャシィをなだめる。確かに毎月の援助は痛い出費だが、家が傾くほどでもない。あとは私が嫌味を受け流せばいいだけの話だ。
陰でひそひそと言われるのは慣れているし、言い返す事もできる。キャシィが案じるような事は何もない。
972年 睡蓮の月17日
私はキャシィを愛していない。彼女を愛しているなど認めない。
ひとたび彼女への愛を自覚したら最後、キャシィに愛されていなければ傷ついてしまう。
そして、キャシィは私を愛していない。しょせんは金で繋がった関係なのだから。
それに、愛は人を不幸にするのだ。だったらいっそ、彼女への想いなど……。
972年 睡蓮の月20日
キャシィが妊娠した。
私が父親? 実感がまったくわかない。そのせいか、漠然とした不安が襲ってきた。
そんな私の心を察したのか、キャシィは優しく笑って私の手を取ってくれた。
情けない夫ですまない。私はいつも君に励まされてばかりだ。
972年 雛罌粟の月1日
子供が生まれる前に、もう少し真剣にキャシィと向き合ってみようと思う。
972年 雛罌粟の月13日
彼女は嘘を言わない。それなら私もそれに応えるべきだ。
私も君を愛している。なんとかそれだけ言えたが、伝わってくれただろうか。
私は両親のようにはならない。決してだ】
――――十二冊目
【973年 鈴蘭の月22日
念願の子が生まれた。キャシィと同じ色の瞳の、元気な男児だ。まだわかりづらいが、髪色は多分私譲りだろう。そうに決まっている。
産まれた子はスティーブンと名付けた。だが、随分と小さくて柔らかいな。力加減がわからないぞ。
ふとした拍子に壊してしまいそうで、なんだか恐ろしい。ついそっけなくしてしまったが、キャシィの気に障らなかっただろうか。
973年 鈴蘭の月28日
明日は神殿に行って、スティーブに下された神託を聞かなければ。
一体、この子はどんな人生を歩むのだろう。
973年 鈴蘭の月29日
なんだあの神託は。ふざけるのも大概にしろ。
気分が悪い。今日はもう寝る。
973年 鈴蘭の月30日
スティーブは揺り籠の中ですやすやと眠っている。安らかなその寝顔は天使そのものだ。
この子が将来、国を揺るがす大罪人になるなど信じられない。
神託は絶対だ。だが、この子を犯罪者になどさせるものか。
973年 薔薇の月5日
陛下に嘘をついてしまった。キャシィに嘘をつく事を強要してしまった。
虚偽の神託を報告するなど死に値する大罪だ。
しかし、これでスティーブの命が守れるのなら安いものだろう。
973年 薔薇の月28日
チェンバレン侯爵が結婚。
相手はなんと、ルゥリ王妃殿下とともにこの国に来た王妃付きの侍女らしい。
彼女もまた王妃殿下と同じく、艶やかな黒髪の楚々とした美女だ。
無論、キャシィのほうが美しいがな。
973年 睡蓮の月13日
帝国との関係が悪化。
あの国とは昔から仲が悪いが、なかなか改善されない。むしろ時を重ねるごとに悪化の一途を辿っているような気さえしてくる。
皇国は我が国の味方だが、帝国は連邦と密接に結びついている。うかつに手を出せば、周辺諸国を巻き込む大きな戦が勃発する事だろう。
しかし大公国は沈黙を続けるばかりで、共和国も中立を気取っている。仲裁など期待できそうにない。
この対立は、子供の代にまで続くのだろうか。
973年 雛罌粟の月20日
老害どもの対立をなだめて回るのは骨が折れる。
なまじ権力のある古狸どもだからその扱いにも難航してしまった。家督を子供に譲って楽隠居でもしていればいいものを】
――――十五冊目
【976年 睡蓮の月9日
この身体が二つにわかれてくれたら楽なのだが。
分身が政務を行っている間、家に帰れたならどんなにいいか。
976年 雛罌粟の月27日
ついに王の御子がお生まれになった。可愛らしい女の子だ。
乳母はチェンバレン侯爵夫人。王妃殿下の侍女である彼女ならば適任だろう。
それに、チェンバレン家には今年産まれた女児がいる。名前は……確か、オリビアと言っただろうか。キャシィとチェンバレン侯爵夫人は知り合いらしく、チェンバレン家のリビーがどうのと言っていたから間違いないはずだ。
きっと、二人は乳兄弟として育てられるのだろう。キャシィも第二子を妊娠しているが、予定日はまだ先だ。早く産まれてこないだろうか。
976年 桔梗の月3日
御子が女児であった事を知る者に、きつい箝口令が敷かれた。
……なんと馬鹿げた神託だろう。産まれた子、それも王の子の性別を偽るなど。
無茶苦茶にもほどがある。いつまでも隠し通せるものでもあるまいに。
第一、王位継承はどうなる。殿下を男として育て、国王として即位してしまえば、王妃を娶るしかなくなるではないか。まさか、女装した男を王妃にしろと?
それでお世継ぎがお生まれになるとしても、殿下がご懐妊なされた時にはどうごまかせばよいのだ。
976年 菊の月15日
待望の第二子が生まれた。利発そうな男児だ。やはり瞳の色はキャシィと同じ、ローズグレイだった。だから今度も、髪は私と同じ色だろう。
次男はパトリックと名付けた。スティーブの時も同じ事を思ったが、気を抜くと壊してしまいそうだ。気をつけて接さなければ。
幼いながらも兄となった自覚があるのか、スティーブはすっかり年長者の顔をしていた。実に微笑ましい。
976年 菊の月21日
神殿になど行きたくもない。パットの人生まで神に決められたくない。
何故、産まれたばかりの子供を持つ親は生後二週間以内に神殿に行って神官どもの説法を聞かなければならないのだろう。
976年 菊の月22日
パットに下されたのは、スティーブとは対照的なほどに輝かしい神託だった。
ありがたくはあるが、その扱いの差に思わず笑えてくる。
976年 菊の月30日
兄は国家に仇なす簒奪者となり、弟は私の跡を継いで宰相になる。
それが神託によって定められた二人の未来だ。
……私は息子達を、平等に愛する事ができるだろうか】
――――二十二冊目
【983年 鈴蘭の月2日
ファーガス侯爵とコーヒーハウスで軽食。
話題はもっぱら子供達の事だった。
奴も子供達との接し方に悩んでいるらしい。どうやら奴のところの三姉弟は、少し早い反抗期だそうだ。私の子供達もいずれはそうなっていくのだろうか?
もしもスティーブとパットに「父様など嫌いだ」と言われたら……想像しただけでも恐ろしい。
983年 薔薇の月10日
庭でスティーブとパットが剣の稽古をしていた。
スティーブは騎士になりたいらしい。夢のために頑張るのはいい事だ。
たとえそれが叶えられないものだとしても、私はそれを応援したい。
983年 睡蓮の月14日
スティーブとパットはコーヒーに興味があるようだ。だが、二人にはまだ早いだろう。
決して飲まないように、としっかり釘を刺したら、今にも泣きだしそうな顔をされてしまった。
この話をキャシィにしたら「そんな怖い顔で凄まれたら、いくら実の子供といえど怯えてしまうに決まっていますわ」と笑われてしまった。解せない。私は普通に言っただけなのに。
それに、これは二人のためでもあるのだ。コーヒーは苦いからな。大人ならともかく、何も知らない子供が飲めば驚いてしまうに決まっている。
983年 雛罌粟の月7日
パットはリビーと一緒に貴族街へと出かけていった。私が気づかないとでも思っているのだろうか。
どうやら殿下に贈る誕生祝いを買いに行くらしい。出入りの商人を呼んでもいいのだが、きっと二人は自分の足で店まで行って、直接商品を見たいのだろう。なんともいじらしい。
目的地は貴族街とはいえ、念のため内緒で護衛をつけさせた。チェンバレン家から遣わされた護衛もいたらしい。お互いに、行動的な子供を持つと苦労するものだ。
983年 雛罌粟の月10日
どうやらパットは大きなくまのぬいぐるみが欲しいらしい。先日、リビーにつれられて随分可愛らしい店に行ったそうだ。護衛の話では、目を輝かせながらくまのぬいぐるみを見ていたという。
欲しいなら買ってやるのもやぶさかではない。キャシィにも聞いたところ、一も二もなく賛成してくれた。それなら今年のパットの誕生祝いはそのぬいぐるみで決まりだ。早速注文しなければ。
それにしても、まさかリビーは殿下の秘密を……いや、考えるのはよそう。
983年 雛罌粟の月27日
今日は殿下の、七歳の誕生日を祝う舞踏会だ。しかしああいう華やかな場は気乗りしない。
キャシィがいなかったらどうなっていた事か。想像するだけで恐ろしい。
広間の隅で、パットとリビー、そして殿下が固まって何かを話しているのが気になった。
また何かよからぬ事をたくらんでいなければいいが……。
983年 桔梗の月14日
あの三人はどうにかならないものだろうか。
キャシィは「子供の好きなようにさせるのが一番の教育ですわ」などと言うが……。
よりによって下町に遊びにいくとは何事だ。何かあったらどうする。心配で心配で、今日は仕事がまったく手につかなかった。
子供達に気づかれないように護衛を同行させたところ、チェンバレン家はもちろん今度は王家がよこした護衛とも遭遇したらしい。どの家も考える事は同じという事か。
983年 紫苑の月6日
また暗殺者が現れた。前回と同じく、標的は殿下だ。
しかし幸いな事に、その場に居合わせたハウエル伯爵夫人が身を挺して殿下を庇ったという。
たまたま殿下と一緒にいたパットとリビーも無事だったようだ。ハウエル伯爵夫人は一見すると重傷だが、幸いにも命に別条はないらしい。
むろん、暗殺者は即座に捕えられた。しかし、こう何度も暗殺者の侵入を許すのはいただけない。宮廷内の警備を増やそうか。
983年 紫苑の月10日
殿下を暗殺しようとした男の処刑が決まった。だが、殿下の暗殺は彼の本意ではない。すべてはそう、神の意志だ。
神は彼に罪人としての生を与え、彼はそれをまっとうしようとした。決して成功できない、王子の暗殺を。
私はあと何人、罪のない者達を処刑台に送ればいいのだろう?
スティーブの死刑執行を許可する書類にも、私はこの名を書かなければならないのだろうか。
……いや、それはスティーブが簒奪者として捕えられてからの話だ。そんな日は決して来ない。
983年 菊の月14日
明日はいよいよパットの誕生日だ。ちゃんとくまも用意した。
しかし、何事もなく終えられるだろうか。
明日はパットの誕生日だが、それと同時にスティーブが……いや、心配するほうがおかしいか。他ならない息子の事を、父親である私が信じられなくてどうする。
寝る前に少しスティーブと話した。あいつならきっと大丈夫だろう。
何事もなかったように夜が明けるに決まっている。不安がるような事など何も起こらないはずだ】
日記はそこで終わっていた。今までずっと日記を読んでいた少年は、ページをめくるまでもなく知っている。次のページが――――『983年 菊の月15日』と、それ以降の記録がない事を。当然だ、父は朝を迎えられなかったのだから。
それでも少年は、ありもしない幻想に縋ってページをめくる。その果てに突きつけられたのは、予想した通りの残酷な現実だった。
次男の誕生日の様子を書くはずだったページは白紙のまま残されている。二度と埋められる事のないその空白は、少年が抱える喪失感そのものを示しているようでもあった。
「とう、さま……」
日記帳を開いたまま、少年は震える声で呟く。ローズグレイの片目からぽつりぽつりと涙が滴り、父の文字をにじませていた。
死人は何も語らない。だが、言いたかった事を、伝えたかった事を記録として残す事はできる。積み重ねられた日記帳は、父が生きた証だ。父の心のうちを綴った、父の人生そのものだ。それを読み、少年は生前の父が抱いていた想いを知った。父が見ていた世界を知った。そしてそれは涙で潤んだ少年の一つ目にしっかりと刻まれている。
「整理は進んでいるか?」
「伯父様!」
父の書斎に現れた伯父を見て、少年は慌てて涙を拭って日記帳を閉じる。そんな甥を、男は憐れむような目で見下ろしていた。
母と同じ色の瞳をもった男は、少年からそっと視線を外す。再び涙が零れそうになるのを、少年は必死にこらえた。
「どれだけ時間がかかっても構わない。遺品の整理が終わるまで、私はいつまでも待っていよう。予定はしっかりとあけておいたからな」
「……はい、ありがとうございます」
哀しげに微笑む少年に、男もまた憐憫に満ちた笑みを返す。そして小さく手を振り、男は書斎を後にした。どうやら様子見に来ただけらしい。
男が書斎の扉を閉じると、ちょうど妻が歩いてくるところだった。妻の手には、義弟が妹に贈った装飾品が握られている。妹が二度とそれを身につける事がないのかと思うと、胸が締めつけられるように苦しくなった。
「あの子の様子はいかがでした?」
「痛々しい事このうえない。……まぁ、無理もないか」
二人の甥のうち、長男は妹に、そして次男は義弟に似ている。男としては、妹に似た長男のほうに親しみを覚えていた。男にとって義弟とは、金で妹を買っていった悪辣似非紳士なのだ。義弟の事は快く思っていなかったし、彼によく似た次男の事も疎ましい。
だが、死ねばいいと思っていたほどではなかった。義弟は決して少なくない額の援助をしてくれたし、それを内心では悔しがりながらも受け取っていたのは自分とその父親だ。それが妹と引き換えに手に入れたものであろうと、恩は恩であるし感謝もしている。
それに、次男はまだ何もわからないような幼い子供だ。いくら憎い男の面影があるからといって、頭ごなしに嫌いになれるはずがなかった。
「しばらくはそっとしておいたほうがいいだろう。……夜中に押し入ってきた暴漢に、両親と兄を殺されたんだ。今はあれも気丈に振る舞っているが、受けた傷が癒える事はないだろうからな」
一人残された少年は、こらえきれない嗚咽を漏らした。涙はひとりでに溢れてくる。
父も、母も、兄もいなくなってしまった。残ったのは莫大な遺産と、誰もいない屋敷だけだ。その屋敷も近々引き払って、来週には伯父の家に身を寄せる事が決まっていた。屋敷を売った金はもちろん遺産ですらも、ほとんどが伯父一家の手に渡る事だろう。
父が手づから与えてくれるはずだった大きなくまのぬいぐるみは、包装を解かれる事もないまま戸棚の一角を占拠している。それを少年に贈る者はどこにもいない――――泣きじゃくる彼の涙を拭ってくれる者も、もう誰もいなかった。
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