Profile

2006年6月更新

 

 

1960年(昭和35年)

三重県生まれ。

両親は、中部電力《株》の社内結婚。結婚直後に「伊勢湾台風」(1959.9)。新居のアパートも洪水に会って当時の写真は、ほとんど無くなったらしい。男3人兄弟の長男。桑名市(七輪、東山)四日市市(水沢町)菰野町と父親の転勤で転居。水沢町では、家族で事務所に住みこみで働く、電力の出張所勤務だった。町の人からは「電気屋さんの子」と呼ばれていた。

 

1973年菰野町立

菰野小学校卒

小学3年生から、高校生までボーイスカウトに入っていた。児童会長もやりました。

 

1976年菰野町立

菰野中学校卒

クラブは剣道部(弱かった)。小学校からアマチュア無線をはじめていたので、必修クラブでは「アマチュア無線部」を教頭先生とつくった。生徒会活動では、副会長と会長をやりました。

 

1979年三重県立

四日市高校卒

クラブは電気部。毎晩2時3時まで、無線仲間と交信(ラグチュウ)していました。おかげで、授業中は居眠り。お弁当は、早弁用、お昼用、クラブの前用、と毎日3つショルダーバックに入れて通いました。生徒会では、制服問題や、同じ学区の高校とのスポーツ大会などに取り組みました。

 

1979年東北大学

工学部原子核工学科

入学

この年は、共通一次試験最初の年でした。原子核工学が学びたくて、その学科がある大学のうち、2次試験に英語のないところとして東北大を選びました。「青葉城恋歌」が流行った次の年だったので『杜の都』のイメージをもっていました。しかし、受験にきた3月には木々に葉も無く、青葉山キャンパスはコンクリートむきだしの寒々とした光景で「宗さんにだまされた」と感じたものでした。

 

学生寮での生活

長町鹿野にある有朋寮に入寮。廊下はところどころ板が抜けていて、部屋に入ると、床がグッと沈む、すでに当時おんぼろ寮でした(今もそのままの建物を使っています)。多くの仲間と、十分な時間をかけて考えたり、論議したり、サークルや寮自治会活動、平和運動などにとりくみました。今のわたしの、ほとんどがこの時期に形成されたように思います。有朋寮の後、学部では松風寮(東仙台のちに上杉に移転)と卒業までずっと寮生活でした。

 

セツルメントサークル

サークルは、有朋寮生と保母専門学院生でつくっていた「鹿野セツルメント」に入りました。地域の子どもたちと、週1回遊んだりしながら子どもたちといっしょに成長しようという活動です。子どもたちをとりまく、家庭や地域の方や、学校の先生と協力が大切だと感じていました。その時々の姿と、その子が願っている姿が別であり、自ら成長していく力を持っていることを教えられました。所属は高校生パートでした。

 

学生寮自治会活動

学生寮は、寮生自身が食堂の運営から、電気、水道代などの管理、大学当局との交渉などを行なっていました。有朋寮の文化委員を皮切りに、有朋寮委員長、東北大寮連委員長、全日本学生寮自治会連合委員長などを勤めました。全寮連は当時、国公立大・私立大・看護学校など北海道から沖縄まで200寮2万人で、中央役員は東京大学の駒場寮内の書記局に常駐していました。私も、2年間休学して全国の寮生と、老朽化した寮の建て替えや、寮食堂をまもる運動、看護学生の「お礼奉公強制」をやめさせる運動などに取り組みました。名古屋の日本福祉大の寮生だった妻とは、このころ出会いました。

 

研究室と卒論

4年生で所属した研究室は、サイクロトロンRIセンターの放射線防護を専門とする藤田研究室です。研究室全体では、CR80というプラスチックをつかって、中性子線を定量的に計測しようと取り組んでいました。卒論では、環境放射能の測定を行う際の前処理を電子レンジをつかって効率化できないか、実際に装置を設計、製作しての検証を行いました。現在の電子レンジは、いろんなセンサーをつけて出力をコントロールするのが当たり前ですが、当時は違いました。微量に含まれているセシウムやコバルトが蒸発してしまわないくらいの温度管理をどうするかが難点でした。熱電対での温度を数値化してコンピュータが読み取って出力をオン・オフするプログラムを、いまや懐かしいBASICで組みました。普通より、ゆっくりと大学にいましたが、無事卒業できました。

 

日本共産党との出会い

大学に入ってすぐ、寮の先輩からすすめられて民主青年同盟に加盟しました。「共産党」には、悪いイメージしかもっていなかったのですが、先輩たちのやっていること、勉強していることは良いことだと感じていました。各党の原発政策、障害児問題、宗教問題など比較しながら勉強してみて半年後に日本共産党に入党しました。私にとっては、寮自治会活動など個別の要求で一致したとりくみを支持政党や信条をこえておこなうことと、自分の信条にしたがってその実現を阻む大元である政治を変える仕事をどちらも行うことは当然だと思い、実践してきました。

 

1986年 日本共産党

宮城県委員会勤務

県委員会で学生担当をはじめ、民青仙台地区委員長、「しんぶん赤旗」仙台青葉出張所長、党仙台青葉地区常任委員などを勤めてきました。高校生から青年労働者までの若い人たち、地域の読者のみなさん、地域や職場の党支部のみなさんとの活動は、「より良い世の中にしたい」という思いがある方々が、それぞれの状況や得手不得手に応じて「できることを勇気を出してやっていただくこと」がいかに力になるかを実感させてもらいました。

 

1998年 長町から

青葉区吉成に転居

87年に結婚し、2人目の子どもが生まれたころから長町に住んでいました。子どもが通っていた学童保育「めだか学級」が学校体育館改修で開設場所がなくなるという事態から、学童保育の父母会の運動にくわわり父母会の副会長、仙台市学童保育連絡協議会の役員を引き受けていました。99年の選挙で、青野とき子市議(当時)に県議に立候補してもらうにあたって、私が市議候補者になりました。選挙のちょうど一年前に、長町から吉成に転居しました。

 

1999年 

仙台市会議員に

初当選

約1年間市議候補者として、青野さんと一緒に活動して迎えた選挙でした。青葉区で正木さんと私の2名を当選させていただきました。日本共産党市議団は、5名から7名へと力をあたえていただきました。私は青葉区で最下位当選だったことと、開票が長引いて当確が出たのが午前4時ころだったため、「全国で一番最後に当選した政令市議」と有名になりました。次点との差53票、みんさんの1票の重みがよくわかる結果でした。

 

2003年

2期目 当選

市議選挙の投票率は50%を割るなか、「イラク戦争反対、市民のくらしと地域経済を守ろう」と呼びかけて選挙戦をたたかいました。日本共産党への期待と、地元の皆さんのご支援を得て、当選することができました。(定数17に22人立候補、15位)

定数削減の中、共産党の仙台市議団は7名から6名へと一つ後退しましたが、引き続き議案提案権を維持しています。青葉区では、県会議員の青野さん、市会議員の正木さんと、引き続き3人で力を合わせてがんばります。

 

委員会所属など

1999年  民生衛生委員会  防災都市調査特別委員会 

       議会広報小委員会

2000年  都市整備建設委員会  

       情報化社会対応調査特別委員会  

2001年  都市整備建設委員会  

       少子化子育て対策調査特別委員会  議会運営委員会

2002年  市民・教育委員会  

       IT市役所創出調査特別委員会  議会運営委員会

2003年  総務財政委員会

       防災・危機対策調査特別委員会  議会運営委員会

2004年  経済環境委員会 副委員長

       防災・危機対策調査特別委員会  議会運営委員会

2005年  経済環境委員会

       東西線沿線整備調査特別委員会 議会運営委員会

2006年 総務財政委員会

       地域経済活性化調査特別委員会 議会運営委員会

 

その他の役職

日本共産党宮城県委員、仙台西地区常任委員、

南吉成中学校PTA会長 、前・南吉成小学校PTA会長

宮城県学童保育連絡協議会事務局長など

 

家族

妻      病院職員(ケアマネージャー)

子ども   長女 高3、長男 中3、二女 小1、二男 4歳

 

趣味など

アマチュア無線(2級)

7エリアで開局しました。JO7JNAです。聞こえていましたらお相手ください。
 旧コール JR2FCD 閉局中

パラグライダー    

年に1回行けるかどうか・・・たまにでも、飛ぶとリフレッシュ。おもに山形南陽市の安心できるインストラクターのもとで、飛んでいます。

うた

昔のフォークと「うたごえ」の曲なら、少し歌えますが、カラオケは歌える曲が見つからないタイプ。