昨日はまとまらないままに書いてしまったけど、今日はもうちょっと思考がクリアになったので、もうちょっと書いてみる。
重複部分もあると思うんだけど、容赦してください。
図書館ツイートとその流れでもやもやした理由。
図書館ツイートってこれのことね。
もうすぐ二学期。学校が始まるのが死ぬほどつらい子は、学校を休んで図書館へいらっしゃい。マンガもライトノベルもあるよ。一日いても誰も何も言わないよ。9月から学校へ行くくらいなら死んじゃおうと思ったら、逃げ場所に図書館も思い出してね。
— 鎌倉市図書館 (@kamakura_tosyok) 2015, 8月 26
この図書館ツイートだけで終わっていたら別にもやもやもしなかったんだけどね。
そのあとの大人たちの絶賛ぶりとかを見るにつけ、もやもやがどんどん増えていって、書かざるを得なくなったのが昨日の記事。
ということで、自分の気持ちを整理していきたいと思います。
もやもや理由1・大人たちの自画自賛
大人たちがさ、「これいいじゃん!」
「思いついた人最高!」
「子どもの気持ち分かっているよね!」
みたいなのを繰り返しているの。
記事も書かれて、それも大絶賛されて。
ま、虐められている子どもから見ると「あいつら、なにやってんだ?」って感じだよね。
虐めている子どもから見ても、「あいつら、バカじゃねーの?」って感じじゃない?
それでさ、「でも覚悟がないなら見守るだけで手出しはしないでください」とか、「一度助けたら、最後まで責任をとらないと下手したら付きまとわれるかも」みたいな感じで話をされようもんなら、本当辛い。
というか、「一度手を出したら・・・(関わったら)」ってやつ、うつ病患者とかに対するマニュアルだよね。
それはともかくとして、まあ、そういうこと。
教育委員会とかで、いじめ対策とか立てられて、中で大人たちが「素晴らしい!」「こんな知見が寄せられるとは教師も捨てたもんじゃありませんな」とか褒め合って満足しているの。そんなイメージ。
そこで抜け落ちているのは、リアルなイジメのイメージ。
別にいいよ? 勝手にやってくれていれば。だって、私関係ないよね。みたいな気持ちになる。
もやもや理由2・いじめっ子どこいった?
みんな図書館ツイートに絶賛。
絶賛している人って、虐められっこ出身なの?
中には、「自分いじめっ子だった」って人いないの?
私は虐められっこだった。これを告白するのは結構キツイことだ。
だって、「生き物として弱い」「どこか付け入るスキがある」ということを白状しているわけだから。
未だに私はこの呪縛に縛られることがある。
だから訊きたいんだよね。昔いじめをしていた人が一体、どんな気持ちでしていたのか。
幼さゆえの浅はかさだったのか、それとも、相手がどうしようもなくイラつく相手だった、とか。
なんとなく面白いからやってた、とかでもいい。
なんでもいい。いじめっ子の声が聞きたい。
虐められっこの気持ちは分かる。少なくとも私には。辛い。惨め。悔しい。一人の人間の中に渦巻く途方もない感情を全て表すことができないとしても、理解してやることができる。
でも、逆にいじめっ子の気持ちは想像しかできない。時と場合が変われば私もいじめっ子サイドにいたんじゃないかと推測する。この推測は、私が「決定的に劣った人間ではない」ということ、「いじめはどこでも起こりうるから、いじめに必要以上にこだわるのはやめよう」という気持ちのもとでなされる。
推測はできる。でも正しいとも限らない。
私をいじめていた一人の女の子(主犯)はのちに家族が逮捕された。家庭環境が複雑だったんだと思う。その鬱憤を外ではらす。その対象が私だっただけ、なんだと思う。
いじめをいじめられっこサイドからしか語らないのは、「いじめはなくならない」からなのかな。いじめられっこの感情は「哀」で一様だけど、いじめっこの感情は測定不能だから?
でも、実のところ、いじめによってつく傷は思いのほか深い。
だから、大人になってからでもいい。どうしてそんなことをしたのか、そういう話がききたい。それが癒しになるし、そういったいじめっ子の体験・心情告白が次のいじめを防ぐことにつながるんじゃないだろうか。
て、結局まとまらない・・・。
このテーマは私には重すぎるんだよね。
手におえない。
ま、私の周りで虐められていて学校行けないって子がいたら、いつでもご相談どうぞ(近隣のみ。ネットする時間はそんなにないので<(_ _)>)。
学校のくだらなさを語るにかけては私の右に出るものはいないし、勉強もやり方を含めて教えることができると思う! (まだ覚えている。大丈夫。)
ということで以上。