「朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み…」70年前の8月15日ラジオからとぎれとぎれに聞こえてきた昭和天皇の言葉。
全国津々浦々そして遠くの戦地にまで流れたこの放送をもって日本の戦争は終わったといわれてきました。
しかし本当にそうだったのか。
実は歴史の真実はそう単純なものではなかった事が今明らかになろうとしています。
8月15日の時点で戦闘態勢のままだった日本軍関係者はおよそ800万人。
その中には降伏に納得せず徹底抗戦を訴える部隊が相次いでいました。
実際に米軍機を攻撃するなど日米双方に多数の死者が出る事態にまで発展しました。
日本の動きを逐一把握していたアメリカは武力で制圧する事も想定し一触即発の危機が高まっていました。
更にこの時北からはソ連が北海道に迫る勢いで侵攻。
犠牲者が日を追うごとに増加していました。
大国からの圧力。
そして徹底抗戦の意欲が収まらない各地の部隊。
政府と軍部は事態収拾に向けて難しい対応を迫られていきます。
実際に戦闘停止の命令を徹底できたのは8月22日。
この1週間に日本の命運がかかっていました。
歴史の一大岐路となった7日間。
真の終戦へと至る知られざるドラマを見つめます。
二宮和也です。
僕は9年前硫黄島の戦いをテーマにした映画で日本兵の役を演じました。
そのころの自分にはまだ縁遠かった戦争ですがその映画の出演をきっかけに当時を生きた方々の壮絶な日々を知る事ができました。
また今年も長崎の原爆をテーマにした映画に出演させて頂きました。
戦争が残していったのは終わらない苦しみだけだったという事を見つめ直す機会を頂きました。
8月15日で終わったとされていたあの戦争。
しかし実はその後も日本の危機的な状況は続いていて対応を誤ればその後の歴史は違うものになっていたのかもしれないという事が分かってきました。
つまり戦闘が終わり武器を置き始めたというこの7日間を知るという事は日本が戦後へと歩みだす重要な原点を知る事でもあります。
ただ8月15日以降は資料が乏しく体系だった研究も進んではいません。
そこで「NHKスペシャル」ではこの1週間の歴史を探ろうと公文書から個人の日記まで資料の掘り起こしに挑みまた関係者の証言を新たに集めました。
どのように日本は戦いをやめ戦後へと歩みだしたのか。
まずは玉音放送のあと日本が重大な局面に追い込まれた最初の4日間を見ていきます。
玉音放送を終えた2時間後首相官邸では終戦に導いた閣僚が集まっていました。
国民と将兵たちに戦争終結を伝えたもののこれから政府と軍部で敗戦処理を行わなければならなかったのです。
まず連合国から求められていたのは日本の占領。
そして日本軍全部隊の武装解除という難事業でした。
しかしその閣議の場で総理大臣の鈴木貫太郎は突然内閣総辞職を切り出します。
終戦の決断を天皇に頼った責任を取るというのがその理由でした。
敗戦処理の話し合いはスタートからつまずく事になります。
なぜ軍の武装解除が困難なのか。
当時玉音放送が流れたとはいえ国内外にはなお戦闘態勢の将兵や軍属などおよそ800万人が配置されたままでした。
これらの将兵たちに戦争をやめさせるには玉音放送だけでなく戦闘停止の命令を出す必要がありました。
その命令を出すのが大本営の陸軍部と海軍部。
しかし共に命令を出せない事情を抱えていました。
陸軍部の実質的な責任者だったのが…宮崎のもとには前線の部隊から徹底抗戦を訴える電報が次々に届いていました。
こうした電報は海軍部にも舞い込んでおり一方的に戦闘停止命令を出せばかえって暴発を招く危険がありました。
宮崎はこの日の日誌に次のように記しています。
終戦直後大本営が最も懸念していたのが105万の兵力を擁する支那派遣軍でした。
中国軍を相手に優勢を保ち内陸部にまで攻め入っていました。
終戦直前には本土に侵攻してくるアメリカ軍を中国沿岸部に引き付け一撃を加える作戦を立案。
本土決戦を側面から支援する準備に取りかかっていました。
旧厚生省が戦後編集したこの資料には玉音放送のあと支那派遣軍の中に徹底抗戦を叫ぶ部隊があった事が記されています。
(取材者)こんにちは。
当時対米作戦に従事していた…鈴木さんは中国南部に展開していた独立混成第二十三旅団に所属。
対米作戦のため海南島から広州に向かっている時に玉音放送を聞きました。
一方の日本本土に展開する海軍の部隊。
不穏な動きが広がり始めていました。
アメリカ軍との本土決戦に備えるため65か所に展開していた特攻隊震洋の隊員たちです。
長さおよそ6メートル。
幅およそ2メートルのベニヤ板で出来たモーターボート。
船首に250キロの爆薬を搭載し敵の艦船に体当たりする特攻兵器です。
全国に2,200隻以上配備されていました。
アメリカの上陸地点の一つと想定されていた高知県の部隊で特攻隊員だった神保公一さんです。
神保さんは玉音放送の内容を知った時強い衝撃を受けたと言います。
部隊では敗北受け入れとは程遠い空気が広がっていました。
明確な戦闘停止命令を出せずにいた大本営海軍部。
その指揮下にあった海軍総隊からある命令が出されます。
加えて次のように命じています。
戦闘を停止するどころかむしろ容認するかのような命令。
この事が事態を重大な局面に導く事になります。
「断固自衛反撃すべし」。
全国の艦隊と基地に伝えられた命令を高知県の特攻部隊司令部が16日午前に受信しました。
当時司令部の幹部だった堀之内芳郎さんはその時の心情を次のように語っています。
まさにその日の午後の事。
「土佐湾沖にアメリカ艦隊が接近中」という電報が舞い込みました。
神保さんたち特攻隊員に出撃準備の命令が下されました。
「敵来攻」の情報は四国各地に配置された震洋隊にも伝わり臨戦態勢がとられました。
しかしこのアメリカ艦隊発見の電報は誤報でした。
その事を知らず急きょ出撃の準備を進めていた神保さんたちに午後7時ごろ思わぬ事が起こります。
(爆発音)一隻の船が突然爆発。
ほかの船も次々に爆発を起こしました。
10代の特攻隊員23人を含む111人が亡くなりました。
この出来事は「一地域の不慮の事故」では終わりませんでした。
更にこの事故は「アメリカ艦隊と交戦中」という誤った情報となって西日本各地の部隊に伝わったのです。
各地では新たな命令が下されました。
大分や高松の航空部隊からはおよそ10機の飛行機が離陸。
もしアメリカ軍と遭遇すれば一触即発の緊迫した事態を招く事になったのです。
こうした日本の動きを実はアメリカは把握していました。
これはアメリカ側が日本の電報を傍受しそのまま記録した資料です。
日本から発せられたこうした強硬な発言が逐一傍受されていたのです。
アメリカのバージニア州にあるマッカーサー記念館です。
ここには終戦後アメリカが日本の軍隊にどう対応しようとしていたのかを示す資料が残されています。
「ブラックリスト作戦」。
玉音放送の1週間前にあたる8月8日にアメリカ軍が作成した日本占領の極秘プランです。
この中には日本軍の抵抗を想定した対応方針が記されていました。
太平洋戦争やマッカーサーについて研究している歴史家のリチャード・フランクさんは当時のアメリカは極めて厳しい姿勢で占領に臨むつもりだったと指摘しています。
この日16日政府と大本営は連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーから強い命令が書かれた電報を受信しました。
この命令は大本営にとって苦渋の選択を迫るものでした。
日本に宣戦布告したソ連が8月9日以降満州や日本の領土だった南樺太などに侵攻。
軍人だけでなく民間人も犠牲になっており戦闘停止命令を出せば被害はもっと大きくなる可能性があったのです。
陸軍部作戦部長の宮崎は海軍部と共に国内外に展開する全ての部隊に対して条件付きの戦闘停止命令を下しました。
この命令は国内の混乱を持続させる事になります。
「17日戦後処理新日本建設第一歩の重任を担う東久邇宮内閣は成立しました」。
この日連合国との交渉を担う内閣が2日ぶりに成立しました。
総理大臣に就任したのは皇族の東久邇宮稔彦王でした。
東久邇宮はすぐに政府と大本営のトップが集まる最高戦争指導会議を開催します。
マニラにいるマッカーサーから進駐についての打ち合わせに来るよう再三催促を受けており早急に対応を協議する必要があったのです。
会議ではマニラに派遣する代表を決定。
そして連合国側に進駐を受けるまでのプロセスについて日本としての案を提示する事にしました。
まずは停戦交渉を行って協定を結ぶ。
その後十分に時間をとって自主的に武装解除を行う。
そして進駐を迎える。
会議後外務省が作成した記録にこの提案の意図が書かれています。
抵抗を続ける部隊と進駐軍が衝突する危険があるため進駐の時期を後ろにずらしたいと考えていたのです。
大本営が国内外の部隊を抑え込む事ができない中この日最大の危機とも言うべき事態が発生します。
発端は午後1時ごろ。
関東上空に2機の米軍機が飛来した時でした。
アメリカは15日以降日本に進駐するための準備として連日関東上空を偵察に来ていたのです。
警戒態勢をとっていた横須賀の海軍航空隊ではパイロットたちが次々に離陸。
14機が米軍機への攻撃に参加しました。
隊員の一人だった神吉彌彦さんはテスト飛行のさなかに無線で連絡を受けて合流。
攻撃の様子を目撃したと言います。
攻撃を受けたB32のうち1機は大きな損害を被りました。
戦闘によってアンソニー・マルチオーネ軍曹が銃弾を受けて死亡したのです。
かつてこの事件の関係者を取材したジャーナリストのステファン・ハーディングさんです。
この攻撃は現場の暴発かそれとも組織の意思か。
アメリカ側の判断によっては重大な局面を迎えたと推測しています。
指導者たちが各地の部隊を抑える事ができずに広がった危機。
なぜ玉音放送のあとにこうした事が起こるのか。
玉音放送から3日。
日本は危機的な状況に置かれていました。
アメリカは統制のとれない日本軍の状況に危機感を抱きこれ以上抵抗が続くならば本格的な攻撃を仕掛ける事まで考えていたのです。
しかしその緊迫した状況を一般の人々は何も知りませんでした。
ここに当時の子どもたちの様子が描かれている絵手紙集があります。
「もうこれで空襲はないのだ。
家族みんな大丈夫だ」とあふれる涙を止められなかったという女の子。
「出征した父が戻ってくる」と素直に喜んだ7歳の少年。
国民は戦争が終わったという開放感に包まれていたのです。
一方多くの人が知らないところで進んでいた日本の危機。
この危機をどう乗り越え日本は戦後のスタート地点に立つ事になるのでしょうか。
大本営が最も懸念していた105万の大軍を擁する支那派遣軍です。
大本営は前日から皇族の朝香宮鳩彦王を派遣。
総司令官の岡村寧次に「終戦は天皇の意思である事」を伝え強硬な態度をとらぬよう念を押しました。
国文学研究資料館准教授の加藤聖文さんです。
支那派遣軍が暴発すると戦争の終結が不可能になる事を大本営は恐れていたと考えています。
当時広州近辺にいた元兵士の鈴木勝美さんです。
各部隊には天皇の意思は伝えられていましたが兵士たちはどうしても負けを認める気にはなれなかったといいます。
大軍を抱えた支那派遣軍。
その全てを抑え込む事ができるのか。
大本営は依然警戒を緩める事ができずにいました。
同じ頃日本各地の部隊でも緊迫した状況が続いていました。
高知県の震洋隊の基地でまた事件が起こります。
それは高知県西部沿岸の震洋隊を配下に置く第二一突撃隊司令部のある幹部の行動から始まりました。
事件を目撃した特攻隊員が戦後に記した手記です。
この幹部が船で配下の部隊を回り「最後の一兵になるまで徹底抗戦せよ」と迫った事が記されています。
この時幹部の要求に異を唱えた人物がいます。
部隊を率いる渡邊國雄中尉です。
隊長とはいえまだ20代の若者だった渡邊中尉。
それでもきぜんと要求を拒否したというのです。
元隊員の証言に基づく当時のやり取りです。
これに対し渡邊中尉は冷静にこう答えたといいます。
(取材者)こんにちは。
当時渡邊中尉の部下だった元特攻隊員の茂市光平さんです。
上官の命令に背けば罪に問われた時代。
渡邊中尉がとった18日の行動は大きな覚悟と勇気が必要だったはずだと考えています。
渡邊中尉は昭和18年3月に慶應義塾大学を卒業。
その半年後に海軍に入隊しました。
震洋隊の隊長に任じられたのは昭和20年の5月の事でした。
茂市さんたち若い隊員からの信望は厚く温厚で気さくな隊長だったといいます。
徹底抗戦を唱える幹部に対峙しその命令を突き返した渡邊中尉。
茂市さんにはそんな渡邊中尉についての忘れられない出来事があります。
元隊員の手記にもその事が記されていました。
玉音放送当日混乱状態にあった隊員たちが「敗戦を受け入れるくらいなら自決しよう」と行動を起こしかけていた時の事です。
そこに駆けつけたのが渡邊中尉でした。
涙を流していました。
「無駄死にをするな。
その力を使い新日本再建のために最大限努力するのがただ一つの道ではないのか」。
隊員たちはただ黙って渡邊中尉の話を聞いていたといいます。
そして自決を思いとどまる事にしました。
この15日以降の渡邊中尉の一連の行動が張り詰めていた特攻部隊の空気を大きく変え始めたといいます。
実はこうした行動を起こしたのは渡邊中尉一人ではありませんでした。
渡邊中尉の隣に写る第一三四震洋隊隊長の半谷達哉中尉も司令部幹部の徹底抗戦の要求を聞き入れなかったといいます。
軍の制度に詳しい一橋大学大学院教授の吉田裕さんは渡邊中尉たちのような事例は全国各地にあったと言います。
そしてこうした指揮官たちにある共通の背景がある事に注目しています。
この日マニラに日本の代表団が到着。
アメリカ側と進駐に関する打ち合わせに臨みました。
進駐軍と国内の軍隊が衝突するのを避けるためできるだけ時間稼ぎをしたいと考えていた日本。
ところがアメリカは一方的にこう通告します。
停戦交渉などのプロセスを省き7日後の26日に進駐が設定されました。
実はこのころソ連の侵攻は更に進み千島列島にも上陸。
3日前には北海道の北半分を占領下に置きたいと要求するなど強硬な姿勢を強めていました。
アメリカは日本側の事情を考慮する余裕はないと判断し待ったなしのスケジュールを突きつけてきたのです。
一刻の猶予も許されない状況になった大本営。
「もし進駐軍に日本の軍隊が戦闘を仕掛けるような事があれば大変な事態になる」。
この日陸軍の作戦部長宮崎周一は海軍と共に日本本土のおもだった部隊に対しある命令を下します。
「8月22日午前零時をもって一切の戦闘を停止する」。
自衛戦闘も許さない徹底した戦闘停止の命令です。
玉音放送から4日。
初めて明確に期限を切り進駐に向けて部隊を抑える方針を固めました。
大本営は戦闘停止期日の22日に向けて次々に手を打っていきます。
まず連合国軍が8月26日以降本土に進駐する事を各地の部隊に伝達。
更に大砲の使用禁止ややむをえない輸送を除いての飛行禁止など具体的な命令が次々に出されていきます。
航空隊では飛行機のプロペラが外されあの震洋隊の部隊では爆薬が海中に投棄されました。
一方で内閣総理大臣東久邇宮稔彦王は前日最高戦争指導会議のメンバーを集め今後会の名称を終戦処理委員会とする事にしました。
戦争終結に向けた姿勢を明確に打ち出したのです。
しかし戦争を終わらせる事は容易ではありませんでした。
特に困難を抱えていたのが外地に展開する部隊です。
大本営が気にかけている支那派遣軍。
総司令官の岡村寧次は現場の混乱に苦しんでいました。
支那派遣軍の部隊が中国軍の一部から力ずくで武器を奪われるなどのトラブルが発生。
時には戦闘に発展して死者が出る事態に及んでいたのです。
その背景には中国国内での介石率いる国民党と毛沢東率いる共産党の対立がありました。
総司令官の岡村は21日特使を送って中国軍と停戦に向けた協議を行い安全の確保を要請しました。
しかし混乱が続く中でその後もトラブルは後を絶ちませんでした。
独立混成第二十三旅団の兵士だった…この時鈴木さんの部隊は武器接収に応じていました。
命を落とす危険もありましたがある古参兵のひと言がきっかけで武器を置く事を決意しました。
この日の新聞では26日以降連合国の本土進駐が開始される事が報じられました。
併せて映画や演劇の上映再開の見出しが躍るなど街には平穏な暮らしが戻りつつありました。
日本が危機に瀕した知られざる緊迫の1週間でした。
一方外地での混乱は続きます。
大本営陸軍部はこの日外地の部隊については戦闘停止命令を3日延長する措置をとりました。
しかしその後もトラブルは収まりませんでした。
支那派遣軍の資料によると翌年の3月までに少なくとも3,280人が戦死したとされています。
8月15日からの1週間で見えてきた事。
それは戦争を終わらせる事がどれだけ難しい事なのかという事です。
戦闘停止に要したこの1週間だけでも多くの尊い命が失われました。
この混乱した状況の中で光とも言うべきものもありました。
それは自らの意思で無用な戦闘をやめ生きる事を主張した現場の指揮官たちです。
あの時なんとか日本を次の一歩に進めていこうとした一人一人の行動。
それが戦後を始める土台になりその後の復興繁栄の力になったのではないか。
そう思います。
厚木飛行場に連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが到着。
連合国占領下での日本の戦後が始まりました。
東京湾上のミズーリ号で降伏文書の調印式。
国際法上日本の敗戦が決定づけられたこの日随行員の一人にはあの宮崎周一がいました。
9月下旬からは海外の前線にいたおよそ300万人の兵士たちも順次復員してきました。
その中の一人元支那派遣軍の鈴木勝美さんです。
昭和21年の6月。
実家にたどりついた時張り詰めていた気持ちが一気に緩んだと言います。
鈴木さんはその後農業や新聞販売そして自動車教習所の教官などをしながら戦後を必死に生き抜いてきました。
元特攻隊員の…戦後は高圧送電用の鉄塔を建設する会社に就職し日本の経済成長を支える一翼を担いました。
国のために死ぬ覚悟を共にしていた戦友たちは農業や自動車産業食品販売など皆それぞれの戦後を歩んでいきました。
かつて上官の命令を拒んだ…亡くなるまで戦死した戦友たちを悼み部下だった隊員たち一人一人を気にかけていました。
茂市さんは自分の戦後の原点にはあの時の渡邊中尉の勇気ある言動があると言います。
日本の真の終戦を決めた知られざる1週間。
戦争を終わらせるために難しい判断を下した軍の中枢。
そして生と死の葛藤の中で生きる事を選んだ現場の兵士たち。
こうした人々の格闘の上に日本の戦後が始まったのです。
2015/08/28(金) 01:30〜02:30
NHK総合1・神戸
NHKスペシャル「“終戦”知られざる7日間」[字][再]
8月15日の玉音放送で終結したとされる太平洋戦争。しかしその後も各地の部隊が徹底抗戦を唱え、特攻作戦の準備も行われるなど、本土決戦への意欲を高めていた。
詳細情報
番組内容
早期進駐を考えていたアメリカは、日本の部隊が戦闘をやめない事態を想定。武力で抑えることを計画していた。当時、日本は政府・軍中央の統制は弱まり、空白期間とも言える状況だった。こうした危機を乗り越える原動力の一つとなったのは、敗戦を冷静に受け止め、部下にどう行動すべきかを説いた前線の名も無き将校たちだった。玉音放送から戦闘停止に至るまでの“緊迫の7日間”を追い、戦後への礎になった人々の行動を見つめる。
出演者
【キャスター】二宮和也,【語り】柴田祐規子
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ニュース/報道 – 報道特番
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