ファミリーヒストリー▽あなたのファミリーヒストリーSP〜視聴者からのメール 2015.08.28


今回は特別版「あなたのファミリーヒストリーSP」。
これまで番組に寄せて頂いた手紙やメールをもとに視聴者の皆さんのルーツに迫ります。
番組に送られてきたメールや手紙の数々。
その中から選び抜いた「あなたのファミリーヒストリー」。
徹底取材でルーツに迫りました。
カナダでこの番組を知った男性。
自らのルーツがずっと気になっていました。
浮かび上がる…見つかった一枚の写真にある真実が隠されていました。
突然送られてきた一枚の封筒。
記されていたのは…120年前一家を襲った大洪水。
新天地を求め向かったのは北の大地。
待ち受けていた厳しい現実とは。
しかしパイロットの過去を語ろうとしませんでした。
思わぬ形で祖父の秘めた思いが明らかになります。
この日初めて家族の歳月と向き合う事になります。
さて今回の視聴者版「ファミリーヒストリー」。
まず最初に紹介するのはこちらの方々です。
どうぞ。
Nicemeetyou.実はカナダからお越し頂きましたテリー・ハイナーさんそして妻のローラさんです。
なぜこの番組にメールを下さったんですか?今のお気持ちいかがですか?職場の日本人の同僚からこの番組の事を聞きメールを送ってくれました。
実はテリーさんの母方の祖母は日本人。
しかしほとんど情報がありません。
というのもテリーさんが5歳の時母親が家を出てしまい祖母の事を聞く事ができなかったのです。
それが6年前音信不通だった母と連絡が取れ祖母のパスポートのコピーを手に入れる事ができました。
しかし詳しい話は聞けませんでした。
祖母の名は田尻次子。
祖母は一体どんな人だったのか。
田尻家のルーツはどこか。
そして親戚はいるのか。
番組ではテリーさんに代わり祖母田尻次子そして田尻家について調べました。
まず向かったのは東京・港区にある…日本人の海外への渡航記録などが保管されています。
ここで田尻次子に関する資料が見つかりました。
昭和5年オランダの日本大使館から送られてきた報告書。
それによると田尻次子はオランダハーグで26歳で亡くなっていました。
次子には3人の子供がいた事も分かりました。
その中の一人がテリーさんの母親ハル・エリカさん。
ハル・エリカさんはその後カナダ人と結婚したためテリーさんはカナダで生まれました。
そして今回テリーさんの伯父に当たる長男のケイジさんが95歳で健在だという事が分かりました。
ケイジさんによると次子がオランダに渡ったのは大正11年18歳の時。
日本で知り合ったオランダ人画家と結婚したためでした。
祖母次子のパスポートには当時の本籍地が記されています。
その住所は広島県呉市本通3丁目。
父の名は田尻種英。
広島県呉市に向かいました。
地元の歴史に詳しい…田尻家が暮らしていた当時の呉の絵葉書を持っていました。
この軒を連ねた建物のどこかに田尻家は暮らしていたと考えられます。
現在は駐車場になっていました。
田尻家はどこに移り住んだのか?付近で尋ねてみても…。
現在の田尻家を知る人は誰もいませんでした。
そこでテリーさんから委任状をもらい祖母次子の戸籍を取り寄せます。
戸籍によると田尻家は呉に来る前鹿児島で暮らしていた事が分かりました。
次子の祖父の名も分かりました。
テリーさんの4代前高祖父に当たります。
田尻家を調べるため鹿児島に向かいます。
戸籍に記されていた住所は鹿児島市の繁華街天文館がある東千石町。
現在は商業施設になっています。
鹿児島県立図書館。
古い地図が残されていると聞き訪ねました。
幕末安政6年ごろの城下の地図。
城のすぐ近くに田尻の名前がありました。
敷地はなんと999坪。
その場所を現在の航空写真と比べると…。
まさに戸籍にあった住所に当たります。
田尻家とはどんな家柄だったのでしょうか?幕末の鹿児島の歴史に詳しい…テリーさんの高祖父田尻務は島津家の要職に就いていました。
調べを進めると驚くべき事実が分かりました。
薩摩藩の大坂留守居役木場伝内が記した手紙の写し。
ここに務の名前がありました。
隣に記されている西郷吉之助とは後の西郷隆盛。
そして大久保一蔵とはあの大久保利通の事です。
田尻務は薩摩藩の中枢で活躍した人物だったのです。
そして実は田尻務はそもそも島津家の分家の当主で薩摩藩の家老だった島津久風の息子。
つまりテリーさんのもともとのルーツは島津家だったのです。
維新後の…45歳になった田尻務は新たな職に抜てきされます。
県北部にある…島津家が守ってきた由緒ある神社です。
ここに務に関する古い史料が残されていました。
歴代の宮司の記録。
維新後もともとあった神社が神宮に名前を変えた時務が初代宮司になっています。
更に貴重なものが保存されていました。
失礼します。
こちらですね。
務の写真です。
刀を差しまげを結った姿。
いつ撮影されたかは定かではありませんが宮司になる前武士としての姿を記念に収めたものなのかもしれません。
しかしその後務は西南戦争で西郷軍に協力したため職を追われました。
一方息子種英は海軍の基地があり薩摩藩出身者も数多くいた呉で建設業を始めます。
テリーさんの祖母次子は恵まれた環境の中で音楽や語学の素養を身につけ来日していたオランダ人と結婚したのです。
そしてテリーさんが知りたいもう一つの事。
一つの資料があります。
そこには田尻家当主の名前が記されています。
務から3代あとのひ孫の名前がありました。
田尻種芳。
種芳は戦前から戦後にかけて薩摩琵琶の演奏者として知られていました。
その種芳の長男が今も鹿児島市内にいる事が分かりました。
こんにちは。
田尻大作さん。
大作さんとテリーさんは共に務の玄孫になります。
突然の事で驚きつつも海外に親戚がいる事を喜び取材に協力してくれました。
田尻家先祖代々の霊を祭った祭壇。
田尻務の名前もありました。
祭壇の奥にある黒い石。
…と言われるこの石には先祖の魂が宿っているといわれています。
そして大作さんが案内してくれたのは鹿児島市内にある田尻家の墓。
ちょうど…テリーさんの高祖父務をはじめ先祖の遺骨が納められています。
さあ…という事ですがテリーさんいかがでしたか?ご覧になって。
実は本日はテリーさんのルーツに当たる田尻家の方にお越し頂いています。
どうぞお越し下さい。
ようこそお越し下さいました。
田尻です。
はじめまして。
VTRにご出演頂きました田尻家の現当主田尻大作さん。
そして田尻真彬さんです。
真彬さんですねテリーさんのおばあさま次子さんの弟さんのお孫さんに当たられるはとこの関係になるんですね。
いかがですか?ええもう…びっくりしてます。
実際にこうして会ってみるとほんとにこういう遠い親戚に会えたんだなという事をちょっとうれしく思います。
実はテリーさんに大作さんからお渡ししたいものがあるという事で。
田尻務の写真です。
感激して胸がつまって…。
さて次にお越し頂くのは盛岡在中の前東正次さんです。
前東さんよろしくお願いします。
よろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
これからVTRご覧頂くわけですがお気持ちいかがですか?ドキドキしてます。
僕もドキドキしてます。
盛岡で歯科医院を営む前東正次さん。
ある事がきっかけで番組にメールをくれました。
奈良県十津川村役場から土地の境界確認の立ち会いに来てほしいとの連絡が来ました。
(取材者)突然来たんですか?土地の名義は前東常松。
正次さんの曽祖父。
先祖が十津川村出身である事は分かっていましたがこの土地の事は知りませんでした。
結局十津川村へは行きませんでした。
しかしこれをきっかけに自らのルーツを強く意識するようになりました。
奈良県十津川村で前東家はどんな暮らしをしていたのか?十津川村の面積は東京23区より広く土地の96%が森林。
現在の人口は3,600。
江戸時代幕府の直轄地だったこの地では十津川郷士と呼ばれる人たちが農業と林業をしながら生計を立てていました。
十津川村役場に向かいました。
前東さんに連絡した建設課の担当者です。
新たな道路建設のため連絡したというのです。
実は4年前の台風12号による豪雨で大規模な土砂崩れが発生。
死者・行方不明者13名という甚大な被害が出ました。
新しい道路を計画している土地の所有者として前東さんの曽祖父常松の名前があったのです。
どんな土地なのか案内してもらいました。
推測されます。
(取材者)え〜っ。
前東家の土地があった辺りはこの120年の間に川底がおよそ70mも高くなり地形が大きく変わってしまいました。
実は前東家が十津川村を離れたのには理由がありました。
3日間降り続いた大雨で村内1,000か所以上で土砂崩れが発生。
168名が亡くなりました。
ある写真を見せてくれました。
これがそうなんですが…。
(取材者)へぇ〜。
洪水で流された前東さんの曽祖父常松の家。
前東家は全ての財産を失ったのです。
この水害のために前東家をはじめ住民2,600人が住む家を失い移住を余儀なくされました。
そんな住民たちが移住先に選んだのが札幌から北に90キロ石狩川沿いの土地…北海道新十津川を訪ねました。
前東家が入植したのは他の住民から遅れる事16年後の事でした。
一旦和歌山に移住し小作農になりましたが生活は苦しく明治39年知り合いの多い新十津川に入植したのです。
前東さんは北海道の新十津川にも行った事がありません。
役場で前東家が入植した場所を調べました。
前東家のあった場所はダムの底に沈んでいました。
そのダムに案内してもらいました。
だめか。
ダムには氷が張りその上に雪が積もり雪原のようになっていました。
前東家はここから更に3キロほど奥にあったといいます。
遅れて入植したため前東家に与えられたのは集落から遠く離れた山深い土地。
稲作には不向きでした。
当時前東家の近所に暮らしていた人が見つかりました。
杉本さんは前東さんの祖父磯一さんの事を覚えていました。
やっと手に入れた土地で細々と畑作を始めた前東家。
しかし入植して10年たっても生活は一向に楽になりませんでした。
そこで前東さんの祖父磯一は新たな可能性を求めて近くの砂川に移住します。
そんな厳しい暮らしの中前東さんの父永雄は自らの力で人生を切り開きました。
学校を出てすぐ三井物産の木材工場で臨時社員として働き始めるとその仕事ぶりが評価され正社員に採用されます。
その後永雄は商社マンとして活躍し東京岩手と移り住んでいきました。
取材の最後に奈良十津川村の近くに前東さんの親戚がいる事が分かりました。
95歳。
前東さんの曽祖母と小澤さんの祖父がきょうだいです。
前東家が村を出たあと小澤さんの祖父は前東家があった場所に石碑を建て新天地での成功を祈ったといいます。
残念ながらその石碑も4年前の洪水で流されてしまいました。
過酷な自然を前に幾度も移住を余儀なくされた前東家の歳月。
そこには苦難に立ち向かいたくましく生き抜いた家族の姿がありました。
いかがですか?前東さん。
あ〜そうですか。
そういう点でも…兵庫県で3代続く美容室を営む大嶋稔さんのルーツ。
戦前祖父がロンドンで美容室を開いたのが始まりでした。
明治32年に生まれた…横浜で修業を積んだ後大正13年25歳の時イギリスへ渡りました。
英語を学び当時ヨーロッパでも随一の人気を誇った美容学校を卒業します。
そしてイギリスに渡って6年後ついにロンドンの中心部に自分の店を構えるまでになりました。
間もなくカットモデルをしていた英国人女性ケイトと恋に落ちます。
2人は結婚。
そして稔さんの父宏が生まれます。
しかし3年後第2次世界大戦が勃発。
祖父款太郎は妻ケイトと息子を連れ日本に戻ります。
戦時下の日本ケイトは敵性外国人として白い目で見られますが款太郎が常に支えました。
終戦後には神戸で美容室を開業。
ロンドンで磨いた技術で人気店となります。
祖父が始め父が受け継ぎそして現在に至るこの店には一家の歴史が詰まっています。
最後にご紹介するのは福岡県出身の柴田るみさんです。
柴田さんよろしくお願いします。
こちらこそよろしくお願いします。
おじいさんの事が気になってらっしゃるという事ですがどんな方なんですか?カナダ人と結婚した…長男が生まれた時ミドルネームに大好きだった祖父から取って「くまお」と付けました。
「戦中は福岡で飛行教官をして戦後は空への夢を諦めて農業を始めました。
昔の事は語ろうとしませんでした」。
明治37年兵庫県姫路市の農家に生まれました。
熊雄が生まれる前年アメリカでライト兄弟が世界初の動力飛行に成功。
飛行機の時代が到来します。
熊雄はパイロットに憧れていましたが農家の少年にとってそれは夢のまた夢でした。
大正11年17歳になった熊雄は地元の銀行に就職します。
しばらくすると思わぬニュースが飛び込んできます。
大阪と徳島の間に日本発の旅客便が就航するというのです。
パイロットの夢が諦めきれなかった熊雄は銀行を辞め静岡磐田の福長飛行機製作所に入社します。
福長飛行機製作所は日本初の旅客機を製作しながらパイロットも養成していました。
熊雄はここで働きながら飛行機の操縦を学びます。
好きな事に熱中できる喜び。
熊雄はめきめきと頭角を現します。
すると間もなく転機が訪れます。
名古屋に開校する日本最大の飛行学校で教官を務める事になったのです。
本格的な航空機時代を前に旅客や貨物など商業用飛行機のパイロットの養成が急務でした。
当時の新聞記事です。
そこに熊雄の名も記されています。
当時の飛行機の性能は不安定で高度な操縦技術が必要とされていました。
今回の取材で熊雄の貴重な映像が見つかりました。
昭和6年飛行場の開設の際記念飛行を終え笑みを浮かべる姿です。
その後柴田熊雄の名は日本中にとどろく事になります。
昭和7年に実施された東京と満州の往復の速さを競う日満連絡飛行競争。
全国から集まった腕利きのパイロットの中に熊雄の姿もありました。
飛行距離4,600キロ6日間かけたレース。
熊雄は見事に優勝。
「日本一のパイロット」という称号を手に入れたのです。
ところが昭和12年日中戦争が始まります。
国の主導でパイロットの養成が行われるようになり民間の飛行学校は次々に閉校に追い込まれます。
熊雄がいた名古屋飛行学校も施設や練習機を手放す事になったのです。
昭和14年熊雄は福岡に移り住みます。
元岡飛行場にあった飛行訓練場の教官になったのです。
学生たちに操縦を教える仕事でした。
熊雄は自分の持つ技術を惜しみなく伝えます。
学生たちは日本一のパイロットに指導を受けられる事がうれしかったといいます。
しかし太平洋戦争が始まると熊雄の教え子たちも戦場に駆り出され次々と前線へ向かいました。
彼らは貴重な即戦力となったのです。
熊雄はただ見送るしかありませんでした。
熊雄の長男博さん。
熊雄の遺品を探してもらいました。
開けた事もない整理はした事がないんですけど…。
しまわれていたのは軍事郵便。
出征していった教え子たちからの便りでした。
そうですね。
私もこんなのが置いてあるとは思いませんでした。
昭和19年戦況が悪化すると熊雄のもとに続々と悲報が届きます。
福岡に来て最初の教え子小島彌太郎22歳。
サイパンの空中戦で戦死しました。
伊佐さんの2年先輩でした。
その後日本軍は劣勢を挽回しようといわゆる特攻を開始します。
熊雄の教え子からも特攻にいく者がいました。
22歳。
出撃前遺書を書いています。
一方伊佐さんもまた特攻の訓練に明け暮れていました。
伊佐さんは出撃直前に沖縄が陥落。
本土決戦に備えるうち終戦を迎えました。
間もなくGHQによって熊雄がいた元岡飛行場は閉鎖されます。
練習機は全て焼かれました。
しばらくすると飛行場の跡地が払い下げになります。
熊雄はその土地の一部を手に入れました。
そして農業を始めたのです。
熊雄は飛行場があった土地を黙々と耕し野菜や米を作りました。
その後民間航空会社からパイロット復帰の誘いを受けますが全て断りました。
過去については語ろうとしませんでした。
今回の取材で熊雄の思いを知る手がかりが思わぬ形で見つかりました。
名古屋で暮らす井上尚さん48歳。
中学生の頃学校の課題で郷土史を調べる事になりました。
そこで戦前地元にあった名古屋飛行学校を題材に選びました。
人づてに熊雄の存在を知り詳しい事を教えてほしいと福岡に手紙を送りました。
すると熊雄から返事が届いたのです。
その手紙を大切に保管してきました。
便箋7枚に当時の飛行学校の様子がびっしりと書かれていました。
家族にも語ろうとしなかった教え子たちへの思いがつづられています。
「卒業生も大多数の者が純粋な気持ちで祖国の為に戦い各地の空に散って行きました。
私は教え子達の心情を思い浮かべその霊の安らかならん事を祈念している次第です」。
戦前日本一のパイロットと呼ばれた柴田熊雄。
戦場に散った教え子たちの事を思い飛行場の土地を耕し続けその生涯を閉じたのです。
いかがでしたか?もうびっくりする事ばかりで…。
子供たちに大きくなった2015/08/28(金) 14:05〜14:55
NHK総合1・神戸
ファミリーヒストリー▽あなたのファミリーヒストリーSP〜視聴者からのメール[字][再]

寄せられたメールや手紙をもとに“視聴者版”ファミリーヒストリーを制作。薩摩藩の武士につながるカナダ人。パイロットだった祖父の封印した過去。ドラマチックな物語。

詳細情報
番組内容
番組に寄せられたメールや手紙をもとに「視聴者版・ファミリーヒストリー」を制作。3つの家族の物語を紹介する。(1)祖母が日本人だというカナダ人。先祖は、薩摩藩の主要人物だった。(2)自宅に突然、送られてきた役場からの通知。そこには、知らなかった先祖の土地が記されていた。(3)戦前にパイロットになった祖父。戦後、何も過去を語らなかった。一体、何があったのか。ドラマチックな物語の数々。
出演者
【司会】谷原章介,【語り】大江戸よし々,細谷みこ

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化

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音声 : 2/0モード(ステレオ)
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