コラム/インタビュー

スポーツとアート

SPORTS and ART 永井一正

スポーツもアートも人に感動と勇気を与えるもの

1972年に札幌で冬季オリンピックが開催されることが1966年4月のIOC総会で決まり、公式マークの指名コンペが行われることになりました。指名されたのは、当時活躍していたベテランから若手まで8名のトップデザイナーで、私もその一人に選ばれました。

永井一正氏
公式マークはポスター、入場券等、さまざまなものに展開された。
これは雪山と銀盤を配した公式ポスター第1号で、ブルーの地に公式マークが映えている。
写真提供:アフロスポーツ

私はアートの面からオリンピックに関わったわけですが、スポーツはどんな競技であれ、人間の極限の美しさの一つの結晶だと思います。スキーの選手が滑降している姿も、マラソンの選手が走る姿も、短距離走の選手が疾走する姿も、みんな美しい。一生懸命に何かをやっている人は絵になります。そういう極限の美しさを持った人たちは、競技する人だけでなく、見る人にも感動を与えます。その点はアートと共通すると思います。

また、一つの可能性の極限に挑んでいくこと自体、両者相通ずるものがあります。どちらもこれでいいということはありません。スポーツではどんどん記録が更新されていきます。アートも今までのものを壊して、絶えず新しいものに挑戦していかなければなりません。現状に満足していてはいけないのです。

これまでに私は多くのシンボルマーク等を手がけてきましたが、80歳近くなった今も現役として、若い人たちと競争しています。最近はスポーツの世界と同じで、日本の中だけでなく、世界中のデザイナーと競争しなければならなくなっています。世界を相手にフェアに戦い、1位を目指して自らの力を問う。これもスポーツとの共通点でしょう。

もう一つ言うと、みんながみんな常にそんなに必死に戦っているわけではありませんが、スポーツでもアートでも、ものすごくいいものを見ると勇気を与えられるということがあります。自分ももっと頑張らなくては、自分にももう少し可能性があるのではないか。そんな勇気を与えるのがスポーツであり、アートであり、この二つが合体した一大イベントがオリンピックです。

一貫したデザインポリシーの
復活が望まれる

私が初めてオリンピックに関わったのは1964年の東京オリンピックの時でした。すべての価値観が覆された敗戦。そこから奇跡的に立ち直り、当時の日本にはオリンピックを成功させ、戦後から脱却したいとの悲願があり、日本の復興を象徴する特別な意味を持ったオリンピックでした。そして、札幌オリンピックでは、夏季に続いて冬季も開催して初めて復興が完成するという気持ちがあり、日本全体がオリンピックに熱い思いを抱いていました。東京も札幌も、オリンピックは都市開催ですが、その実は壮大なる国家イベントだったのです。

だからこそ、公正な競争のもとで公式マークを決めるべきだと、勝見勝氏が提案され、東京オリンピックから指名コンペ方式が採用されました。いったん公式マークが決まれば、あとはそれを中心に一貫したデザインポリシーのもと、日本のデザイン界が一丸となってあらゆるデザイン作業に取り組みました。その結果、世界に今まで例のなかったハイクオリティなデザインが展開されました。

また、デザイン以外でも、篠田正浩監督が記録映画を作られるなど、日本のトップアーティストが総力を挙げてオリンピックに関わりました。ところが、今はそういうふうな感じではなく、とても残念です。

現在、2016年東京オリンピックの招致活動が行われています。前回の東京や札幌では「復興」と「開発」がキーワードでしたが、今度は「環境と建設の調和」が問われるオリンピックになるでしょう。今や環境やエコの問題を抜きに大きなプロジェクトを実現することはできないし、行ってはいけない時代です。それだけに環境問題にはしっかり取り組む必要があります。が、同時に、招致に成功された暁には、ぜひとも、デザインポリシーをきちんとやっていただきたいと切に希望します。

菊竹清文
永井一正(ながいかずまさ)
1929年、大阪府生まれ。1951年東京藝術大学彫刻科を中退、大和紡績に入社。宣伝を担当してグラフィックデザイナーとして仕事をする。1960年日本デザインセンター設立に参加。現在、日本デザインセンター最高顧問、日本グラフィックデザイナー協会理事ほか。主な作品は、三菱UFJフィナンシャル・グループ、東京電力などの企業シンボルマーク、沖縄国際海洋博覧会シンボルマークなど。

ページトップへ