Kindleで本の整理をしていたら『レールの外ってこんな景色: 若手ブロガーから見える新しい生き方』の表紙が目に留まって、つい最初から読み直してました。
レールの外ってこんな景色: 若手ブロガーから見える新しい生き方
- 作者: イケダハヤト,タクスズキ,鳥井弘文,けいろー,ツベルクリン良平,下津曲浩,池田仮名,金野和磨,中里祐次
- 出版社/メーカー: WOODY
- 発売日: 2014/11/14
- メディア: Kindle版
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個人で情報発信をする若い世代の生き方、特に「ブログ」を通しての新しい働き方をテーマにした若手ブロガーの共著本です。
実は最初読んだとき、下津曲浩氏の「イケダハヤトさんに会いに行ってアシスタントに~」のくだりで本を閉じたんですよねー。焦燥感で反射的に。
今、同じくだりを凪いだ気持ちで読めて、それは最初読んでから今までの間に、自分が転職を経たってのが大きいです。
この本とは関係ない転職だし、もう笑い話に出来るんですが、当時はちょっとだけ「井の中の蛙コンプレックス」をこじらせてた気がします自分。
大学の同期が海外転勤やMBA留学に行くのを見送りながら、「今、やりたいことができる環境にいると思っているけれど、本当は守りに入ってるんじゃない?」と、敷かれたレール以外を知らない劣等感というか負い目的なものを発動してました。
落ち着いた今なら、そこは焦るところじゃないとわかりますけれども。
自分を変えるには環境を変えるのが一番ですが、それは大前提として「自分を変えたい目的」が必要で、変えること自体目的にするとおかしくなるわけです。
でも当時は隣の芝生の青さに焦って、目的もないまま自分は変わらなければという錯覚に囚われてた。考える余裕があるだけ幸せ、なのかもしれませんが。
そもそも、井の中の蛙コンプレックスを発揮して憧れた「大海」、外れたかった「レール」て何だったんですかねー。
レールというくらいなので、能動的に足を進めなくても進んでしまう、受動的な生き方かな。ありがちだと「親の言う通りに大学に通い、新卒入社した会社を定年まで勤め上げて退職、老後はマイホームで悠々自適」とか。このご時世、受動だけで辿り着くならむしろ羨ましいけれど。
ニーチェの『ツァラトゥストラはこう語った』を読んでいるところなのでそれ風に言うと、「自分が人生の主人公であるという感覚を失った生き方」でもいいかもしれない。
ちょっと前の記事ですが、
電撃 - 世界ではストーリーに代わる概念“ナラティブ”が語られている――『DQ』はナラティブで、『FF』はナラティブではない【CEDEC 2013】
“ストーリー”と“ナラティブ”は、日本語ではどちらも“物語”と翻訳されてしまうため、その違いが見えにくいところがある。(略)
まずストーリーとは、“始まりがあって終わりがあり、誰がなぞっても同じ経路をたどるものである”という。それに対して、ナラティブには“時系列が設定されておらず、これはプレイヤー自身の経験や出来事によって語られるもの”だという。またそこには、受け手であるプレイヤーにとっての意外性や偶発性が必要だ。
例えばDQ(ドラゴンクエスト)では、世界設定やイベントは用意されますが、主人公の感情や旅の目的は明示されず、それゆえプレイヤー自身の想像と体験で物語は語られます。これが"ナラティブ"。
逆にFF(ファイナルファンタジー)では、世界設定やイベントのみならず、主人公の感情や旅の目的、他のキャラクターとの関係性までもシナリオ化され、プレイヤーは観客として物語を読みます。これが"ストーリー"。
大海を知らない。敷かれたレールを走る。そんな風に知らず自分が仮想敵に置いていたのって、本当は"ストーリー"だなと思うんです。
誰がなぞっても同じ経路をたどるもの。主人公は別にいて、自分はそのシナリオをなぞっているだけ、みたいな。そこに自分の意思はない。
一方の「新卒で入った会社」「出世競争」「先の見えない日本」みたいな設定って、それ自体は"ナラティブ"ですよね。それを元にストーリーを作るのは自分の体験な訳で。主体的に生きるのであれば、そこはもう敷かれたレールではないのです。
ここら辺、焦りの渦中にいるとごっちゃになって、ナラティブをストーリーと勘違いしたまま中断ボタンを押しちゃいたくなる。こわい。
なんて書いてはみたものの、これからも別の大海を知ったら焦るし、逆に「井の中の蛙も能動的であれば楽しいものだよ」な言い訳で守りに入ったら嫌だし、井の中の蛙コンプレックスの御し方って難しいものですね、というつらつらとした感想のまま〆です。