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【山口組分裂・緊急再掲】山一抗争外伝 大物組長に呼び出されて

【山口組分裂・緊急再掲】山一抗争外伝 大物組長に呼び出されて

※この記事は、2011年10月13日に「【関西事件史】山一抗争外伝 大物組長に呼び出されて」としてMSN産経ニュースWestに掲載されたものです。

 昭和60年3月初め、大阪・桜橋(当時)にあった夕刊フジ大阪編集部に一本の電話が鳴った。

 野太い声で「この間の1面の記事やけどなぁ」。電話の主は、広島の広域暴力団、共政会の幹部を名乗り、「記事には事実誤認がある。親分がえろう怒ってはるから、広島まで説明にこいや」と有無を言わさぬ調子だった。

 指摘された記事は、数日前に先輩記者が特ダネとして報じた。反山口組組織「関西二十日会」のリーダー的存在だった共政会の山田久会長(故人、当時56歳)が、完全装備のベンツ改造リムジンを輸入したというものだった。

 山田会長といえば、映画「仁義なき戦い」のモデルの一人で、武闘派として知られていた。山口組4代目の竹中正久組長が、一和会のヒットマンに射殺されてから1カ月余り。これまで旗幟(きし)を鮮明にしていなかった広島ヤクザが、いよいよ一和会側に立ち、「参戦」するのではないか、というのが記事の見立てだった。

 これにカチンときた共政会側から、広島まで呼び出されたわけだが、入社2年目で夕刊フジの大阪府警詰めだった記者もなぜか「カメラマン」として同行させられることになったのだ。

 マル暴担当として何度か記事のクレームを受けたことはあったが、大物組長に直接「釈明」に行くのは初めて。「やばくないですかね」。国鉄広島駅近くの組事務所で待機させられているとき、先輩記者に小声で話しかけたが、「大丈夫や」と答えた先輩の声もこころなしか震えているようだった。

*   *

私邸での会長インタビュー

 10分ほど組事務所で待たされた後、ベンツに乗せられて向かった先は、広島駅から約3キロ、黄金山と呼ばれる高さ212メートルの山の中腹。ここに4階建ての山田会長の私邸があった。

 玄関にいたる階段の両脇に、揃いの紺のブレザーにグレーのスラックス姿の親衛隊が2列になって出迎えた。まるで男子高校生のような制服だが、角刈りの面構えは、まさしく広島ヤクザのそれ。「押忍(おっす)」「押忍」という声に背中を押されて、玄関をまたいだころ、ようやく開き直れたのか、膝の振るえが止まった。

 着流し姿で応接間に現れた山田会長は、開口一番、記事に書かれたリムジンはあくまで護身用で、「戦争」で使うために買ったのではないこと。山口組と一和解の抗争は内輪もめであり、共政会はどちらにもくみしないこと、などを説明した。

 この後、案内されたガレージには、問題の白いリムジンの巨体が眠っていた。全長6メートル。厚さ1センチ以上の防弾ガラスは現地の試射実験で、ライフルの銃弾も跳ね返したという。

 共政会の前身は、「仁義なき戦い」で名を上げた山村組といい、山口組の中国地方進出に手を貸した打越会との間で、昭和38年から39年にかけて抗争を繰り広げた。結局、山口組の広島侵攻は失敗、山村組は共政会と改称し、広島ヤクザの中心的存在となった。

 その3代目として君臨する山田会長は、意外なほど物腰が柔らかった。

 水割りをすすめられ、リラックスしてきたところで、山田会長はサングラスの奥の目を光らせこう言った。

 「あんたらが、どんな記事を書こうが、わしは気にもせん。ただ、わしが怒ってると、『これ』が感じたら、勝手に何をするかわからんから気をつけなさいよ」

 山田会長の隣に立っていた『これ』の指が、きっちり詰められていたのを確認したときは、さすがにグラスを持つ手が震えた。ただ、記者らをわざわざ広島まで呼びつけたのは、単に記事へのクレームだけではなかったようだ。

 山口組と一和会の「骨肉の争い」に、何とか終結の道筋をつけたい。そのために中立的な立場で何かできないか、と模索しているように見えた。実際、これまでメディアに沈黙を守っていた山田会長だが、夕刊フジのインタビューの後、せきを切ったように週刊誌などの取材を受け始めた。

夕刊紙の「飯のタネ」

 府警本部を担当していた昭和58年から平成になるまで、関西で大きな事件が続発した。114号から116号までの警察庁広域指定事件を初め、豊田商事事件、イトマン事件…。日航ジャンボ機墜落事件は関西でも多くの犠牲者を出したし、21年ぶりとなった阪神の昭和60年の優勝も「事件」と呼べるだけの社会現象となった。

 その中で、何が一番大変だったかと聞かれれば、夕刊紙の「飯のタネ」として、ほぼ1年振り回された山一抗争になる。

 忘れもしない。竹中4代目殺害の一報は、友人と地元でビリヤードをしていた土曜の夜にもたらされた。4代目の愛人宅でもあった現場に直行。そのまま愛人の実家がある山陰地方に飛び、いわゆる「がん首」(顔写真)探しに追われた。大阪に戻ってからは、夜討ち朝駆けで4課の捜査員宅を回り、昼間は神戸の山口組本部や山広組長宅の張り込み、アポが入れば直系組長クラスのインタビュー…といっても、長時間待たされたあげく、ほとんどが勝手な言い分を聞かされるだけだったが。

 そんな中、共政会トップの取材は、お供だったとはいえ、抗争そのものを少し俯瞰(ふかん)できたという意味で興味深いものだった。

 ただ、山田会長の性急な動きに疑問は残った。「ひょっとしたら、重い病気にでもかかっているのかも」と勘ぐったが、会長はインタビューの2年後に死亡。山田会長から「これ」と呼ばれたナンバー2、沖本勲理事長(後の4代目会長)も鬼籍に入った今、真意を確かめる術はない。(執行役員夕刊フジ代表 鳥居洋介)

◆山一抗争◆

 日本最大の広域暴力団「山口組」が、病死した田岡一雄・3代目組長の後継をめぐって分裂。昭和59年6月、竹中正久若頭の4代目組長就任に反発した山本広・山広組長を支持する直系組長グループが「一和会」を結成して対立した。

 分裂当時、山口組は組員4700人、一和会6000人と、勢力的には一和会有利とされた。しかし、山口組側は切り崩し工作を進め、一和会側は有力メンバー組織が解散したり、山口組側に寝返ったりするケースが相次いだ。60年1月の竹中組長射殺事件発生時点では山口組1万人、一和会2800人と、完全に逆転していた。事件は、窮地に追い込まれた一和会側が“暗殺隊”を結成し、竹中組長の命を狙ったものだった。

 竹中組長の射殺で両組織の全面抗争となり、62年2月の山口組による抗争終結宣言までの間に、300件を超える抗争事件が発生。一和会側に死者19人負傷者49人、山口組側に死者10人負傷者17人が出たとされる。また、警察官や市民にもけが人が4人出た。

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