とある場所で、『スカイ・クロラ』は延々と続くモラトリアムな日常を描き出しており、それ自体が既に古い概念で、生活に追われて生き残りを考える今の若者の姿を映しだしていない、
と怒りに満ちたレビューを書いている人がいた。果たしてそうなのだろうかと疑問を感じた。
今この増田にしたところで、日々続く生命維持の営みと凌ぎ合いが行われている。
そこは全く恵まれても居ない、精神も含む生活レベルの低下を延々と続けなければならない鬱屈した感情に満ちている。
その地平線を遠く見渡すと、向こう側は霞んで全く見えないほどだ。
それらは学生的な怠惰か、ルーティンによるハイウェイシプノーシスのような怠惰なのかという点のみが相違しているのであり、本質は全く変わらない。
その点で『スカイ・クロラ』は毎回の倦怠的なお努めによって日々を消化しており、現代の勤め人の心理状態と同質だと思える。
どちらも延々と先に続く地平線が見えない手遅れな日常だ。そこから大きな飛躍もなければ、今の維持状態によって下降もない。
苦しさだけは否応なしに積み重なっていって、僅かな会話だけが苦しみを紛らわせる。
地下鉄サリン事件から『終わりなき日常を生きろ』『エヴァ』ときてネオ・オウムとも思える『プンプン』やら『惡の華』やらを挟みつつ、『輪るピングドラム』でその後の傷跡が描かれた。
団塊にとってモラトリアムと安保は切り離せないものだったようだが、そこまで来ると空気が分からず、どこからが国内の地平線だったか知る由もない。
そして、今の若い人たちが延々と続く日常を体感した時、その普遍的な感情を国内の何の事件に求めるだろうか。
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201106270119_02.html
今現在でも作者は終わりなき日常は続いており、結局それは依存体質から発生するものだと看破している。
つまり『スカイ・クロラ』は永遠の学生として生き、会社にぶら下がる依存的社会人には誰でも発生しうる概念であることが分かる。