大丸心斎橋店:「芸術的価値が高い」壊さないで
毎日新聞 2015年08月28日 09時00分
◇設計図所蔵のヴォーリズ事務所が声明 「内観も保存を」
昭和初期の名建築で、大阪・ミナミの顔として市民に親しまれてきた大丸心斎橋店本館(大阪市中央区)の建て替えが発表されたことを受け、設計図を所蔵する一粒社(いちりゅうしゃ)ヴォーリズ建築事務所(本社・同市北区)が27日、内観を含めての保存を大丸側に要望する声明を出した。声明では「芸術的価値が甚だ高い建築物」で、「外壁のみの保存という安易な判断は今一度見直していただきたい」としている。
本館は1933年完成。建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズの代表作で、市を南北に貫く御堂筋の沿道に建つ。アールデコの装飾を施した外観やアラベスク風の幾何学模様をあしらった内装など多彩な表現が特徴。集客力の向上を理由に、大丸松坂屋百貨店を傘下に置くJ・フロントリテイリングが今年7月、外壁を一部残す方向で来年からの建て替えを発表していた。
これに対し、声明では「心斎橋大丸の魅力は内部も活(い)かしてこそ輝く」と指摘。「光と色彩と装飾意匠で散りばめられた幻惑的な1階のエントランス、エレベーターホールは独自性溢(あふ)れる空間」とし、完成当時のデザインを残した内観そのものの保存を訴えている。
約80年にわたり景観の一端を担い続けた歴史的価値にも言及し、「歴史の重みを受け継ぐ姿勢を持ち続けて」と要望。さらに空襲で焼失した最上階の復元も要望し、最良の状態に修復することが「揺るぎない企業価値を高める」としている。
一粒社は1908年創業の「ヴォーリズ建築事務所」の後身。保存を求める市民らの声も高まっており、設計者の志を受け継ぐ立場からその価値を社会に訴えようと声明の発表に至った。【清水有香】
◇ウィリアム・メレル・ヴォーリズ
1880年、米国生まれ。英語教師として1905年に来日。滋賀県近江八幡市で教職生活を経て、建築設計を始めた。代表作に神戸女学院(兵庫県・国重要文化財)や、豊郷小学校旧校舎(滋賀県)、山の上ホテル(東京都)など。近江兄弟社の創業者でもあり、学園の設立や塗り薬「メンソレータム」(現・メンターム)の国内販売など教育・医療の分野でも活躍した。64年に83歳で死去。
◇ヴォーリズ建築事務所が出した声明全文
大丸心斎橋店本館について願うこと
株式会社一粒社ヴォーリズ建築事務所
2015年8月27日
20世紀に入り新しく百貨店建築というビルディングタイプが当時ヨーロッパ、アメリカで盛んに建設されていた頃、大丸心斎橋店本館(心斎橋大丸)は近代的な大商業都市へと発展していた大阪において、自らの威信を掛けて欧米とも比肩する百貨店建築を、という熱意で誕生しました。その後も「大大阪」の名に相応(ふさわ)しい都市景観の一端を担い続け、今では人々の間にも大阪の都市の歴史においてなくてはならない存在となっています。
さて、私たちはウイリアム・メレル・ヴォーリズが1908年に建築設計業を創業して以来、その精神を継承し今日も活動を続けてきております。
ヴォーリズ建築は今も多くの人々に愛されてきており、昨年5月には西宮市の神戸女学院がヴォーリズ建築としてははじめて重要文化財に指定され、文化財としても極めて高い評価を受けるに至っています。その中でも本建築はゴシックリヴァイバル様式や、アールデコ様式から成る古典主義の意匠による建築という、建築史的分類だけでは説明し尽くせないものがあります。当時、大同生命(1922)、矢尾政レストラン(現東華菜館)(1924)、京都大丸(1926)、関西学院(1927)、大丸ヴィラ(1928)、神戸女学院(1929〜1933)等、建築家事務所として代表的な設計を経た上で、当時の社主下村正太郎というクライアントの全面の信頼と惜しみない建設資金とによって、その力を遺憾無く発揮できた作品という点において、ヴォーリズ建築として最高傑作といえる位置にありその重要性も極めて高いものです。
御堂筋側をはじめその外観は非常に密度が濃い意匠が今も残され、大阪ミナミの品格ある都市景観によって永年人々を魅了し続けていますが、心斎橋大丸の魅力は外観に匹敵するほどのインテリアにもあるといえます。複雑な幾何学模様のモチーフは外観で完結することなく、随所で異なるデザインで現れ、訪れる者の視点を立ち止まらせ、その都度人々を楽しませてくれます。この光と色彩と装飾意匠で散りばめられた幻惑的な1階のエントランス、エレベーターホールは、その最も華やかな、そしてここでしか見られない独自性溢(あふ)れる空間です。これはインテリアと外観が一体となってこそその魅力が最大限に活(い)かされているということは言うまでもありません。これらを超えるものを新たに創り出すことは到底容易ではないと思われます。
しかし魅力はそれに留まりません。かつて最上階・7階に、訪れた家族にとって特別な記憶の場であった和・洋のレストランが設けられていました。不幸にも太平洋戦争末期の空襲によって焼失し、戦後この姿が蘇(よみがえ)ることはありませんでした。今でも十分魅力のあるこの空間こそ復元する価値のあるものではないでしょうか。
さらにインテリアにおいて特筆すべきは、心斎橋通り側には、エントランスから最上階の6階まで吹抜けの大空間が存在したことです。意匠はゴシックスタイルとは趣を異にする、当時イギリスで流行したロバート・アダムスタイルとも呼ぶべき優雅なクラシカルスタイルで華やかに飾られ統一デザインされた、いかにも百貨店建築に相応しい空間が存在しました。
これも先述のレストランと同様、戦争の犠牲となり、それも空爆の前に延焼防止措置として床を塞ぐ際に失われてしまっています。この空間も技術的な課題ももちろんありますが、復元してオリジナルな美しさを持つ状態に蘇らせてもらいたい場所です。建築とは不慮の事故で失われたらそれで終わりというのでは決してありません。これら失われた部分もふくめて、下村正太郎とヴォーリズ建築事務所が創り出した傑作といえるのです。
以上、私たちは大丸心斎橋本館の設計者W・M・ヴォーリズおよびチーフデザイナーとして主要な活躍をした佐藤久勝たちの継承者として、我が国においても建築的価値の甚だ高いこの建築の可能な限りの保存と、それと同時に失われた復元・修復・補強と節度ある再生を強く願います。
建築とは本来外観と内観は切り離されて考えるのではなく、一体的に常に捉えてこそその価値は深まるものです。時代の変遷を重ねるうちに素材をふくめ全てに深みを増し、人々の記憶の中にも馴染(なじ)んでいきます。その過程の中で、あるものは不慮の事故で失われ、また設備面も含めての劣化、老朽化、耐震性の見直し等解決すべき課題も現れて当然ではありましょう。しかし百貨店建築をはじめ我が国が見習った諸外国の先例が、復元もふくめて歴史的な建築の保存・再生利用を積極的に行い、かつその運営方法として有効な活用の仕方を見出しつつ今も存続しているのを見るまでもなく、この心斎橋大丸においても、失われた部分は復元し、竣工当時のオリジナルな魅力を再度輝かせた上で、新たな活用の道を模索することも十分可能性はあると思われます。芸術的価値が甚だ高い建築物をその最上の状態に修復・復元(一部時代に合わせて再生)していくことは、それ自体が揺るぎない企業価値を高め、具体的には優れた観光資源と成り得るポテンシャルを有しており、ビジネスとしての採算性も十分見合うものであると思われます。
現時点での新聞報道では建替えに際し、外壁は活かすとされています。しかし上述しましたように、心斎橋大丸の魅力は内部も活かしてこそ輝くものだと確信いたします。望むべき理想形は度重なる増築の上に完成した本建築の心斎橋筋側の1・2期、御堂筋側の3・4期分を全面保存の上、一部失われた部分の復元・修復がなされることが、この心斎橋大丸を最も華麗に輝かせることができることだと思われます。しかし、ある部分は建替えなくてはやむを得ない事情もあるかもしれません。万が一そういった場合であっても、いきなり外壁のみの保存という安易な判断をすることは今一度見直していただきたい。やむを得ず建替えを検討する場合でも、例えば御堂筋側と心斎橋筋側とでは御堂筋側がその文化芸術的価値はより高いかと思われます。御堂筋側半分は残し、失われた部分は復元・修復した上で、心斎橋筋側は一部高層で建て替え、その中においても低層部分は御堂筋側と調和させつつ、外壁を残し、また失われた吹抜け等は新築の部分において復元するといった手法も、一つとしては有り得ると思います。このように重要で残すべき優先順位を慎重に段階的に検討していく必要があるかと考えます。
何より心斎橋大丸は先の戦争を跨(また)ぎ時代の変遷の中で80年以上におよび大阪の中心である御堂筋とともに生きてきたのであり、まさに百貨店大丸としての歴史的象徴として位置づけられていると言っても過言ではないのです。その歴史の重みを受け継ぐ姿勢を、諸外国に倣うまでもなくこれからも持ち続けていただく事を切に願うものです。
私たちは創業当時からヴォーリズの精神とともに、設計原図をはじめとする歴史的資料・建築家マインドをも大切に継承しています。必要であれば心斎橋大丸の復元・修復に関しても、その協力を惜しまない所存です。