朝鮮王朝初期の太宗、世宗の在位期間に当たる1410-20年代に貨物を満載した船が全羅道の羅州を出発した。行き先は首都・漢陽(現在のソウル)の穀物倉庫である広興蔵だ。コメ、麦などの穀物や粉青沙器と呼ばれる磁器、羅州特産のナツメ、砥石(といし)など貢納品を満載した船は、忠清道泰安沖を北上中に座礁して沈没した。海底地形が複雑で、潮の流れも速く、昔から「難行梁」と呼ばれていた海域だった。
海中の泥に深く埋まっていた船舶と遺物がこのほど、600年ぶりに日の目を見た。文化財庁国立海洋文化財研究所は26日、忠清南道泰安郡近興面の馬島沖で昨年発見された沈没船「馬島4号船」(残存全長13メートル、幅5メートル)が15世紀の漕運船(税金として集めた穀物を運搬していた船)だと確認されたと発表した。韓国の海域で朝鮮王朝時代の船舶が発見されたのは初めてで、文献でのみ伝えられていた漕運船の実物が確認されたのも初めてだ。
これまで韓国の海底で確認された古代船舶は計13隻で、うち10隻は高麗時代、2隻は13-14世紀の中国、1隻は統一新羅の船だった。朝鮮時代に馬島海域で数多くの船が沈没したという記録はあったが、実際に確認されたのは初めてだ。
海洋文化財研究所が今年4月から船舶の精密発掘を実施した結果、粉青沙器143点、木簡61点などの遺物約300点が発見された。朝鮮王朝時代の船だという根拠は木簡だ。木簡は貨物の荷札の役割を果たした。発掘された木簡61点のうち52点には出発地と終着地を示す「羅州廣(広)興倉」という文字が書かれていた。木簡の一部には穀物の量、種類を示す「斗」「麥(麦)」といった表記が見られた。海洋文化財研究所は「羅州の栄山倉で集めた税穀と貢納品を首都の広興倉に運んでいたことが明確になった」と説明した。
船舶の年代を特定する決定的な手がかりは粉青沙器にあった。粉青沙器3点からは朝鮮王朝時代の官庁である「内贍寺」を示す「内贍」という文字が確認された。内贍寺は宮中に上納する特産品や階級が二品以上の官吏(かんり)に供する酒、つまみ類の流通を担当していた官庁だ。
文化財庁のパク・キョンジャ文化財鑑定委員によると、1417年(太宗17年)から『内贍』という文字を粉青沙器に刻み始め、1421年(世宗3年)には、宮中に収める食器の品質が悪いため、陶工の名前や地名を表記するよう指示されたという。従って、発見された粉青沙器には陶工の名前や地名がないため、製作時期は1417-21年という結論が出る。
海洋文化財研究所は「竹、砥石、穀物などを入れた俵のようなわら袋の『石』も発見され、朝鮮王朝初期の海洋史、経済史、文化史などの面で貴重な研究資料になる」と指摘した。