戦前エリートはなぜ劣化したのか
国家を担うべき政治家、官僚、軍人は破滅に向かう日本を誰も救えなかった。エリートはなぜ失敗したのか?
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自動車が崖に向かって猛スピードで走っている。車中の人々は、誰も前を見ず、ブレーキを修理したり、エンジンの調子を整えたりしている。運転手も視界が悪いと窓を拭くばかりで、肝心のハンドルを握っていない。
満州事変から敗戦に至る日本は、運転手がよそ見をして、ハンドルから手を放していたために崖から海に転落していった車に見えます。
運転手として、国のハンドルを切り、ブレーキを踏まなければならなかったのは誰か? それは戦前のエリートにほかなりません。政治家や官僚、軍人たちです。
なぜ、彼らは国の舵取りを誤ったのか? いや、それどころか、なぜそれを放棄してしまったのか?
それは戦前日本の失敗を考えるとき、もっとも重要な問いの一つです。
それを考えるために、明治維新まで時間を遡り、この国のエリートを大きく三期に分けて考えてみましょう。
第一期は、明治維新の志士で明治政府の創設に参画したエリートです。西郷隆盛(一八二七生)や大久保利通(一八三〇生)、伊藤博文(一八四一生)や山県有朋(一八三八生)、西郷従道[つぐみち](一八四三生)といった人々です。
第二期は慶応年間(一八六五~一八六八)から明治初めごろに生まれ、江戸時代の生き残りに育てられたエリートです。秋山好古[よしふる](一八五九生)、秋山真之[さねゆき](一八六八生)、正岡子規(一八六七生)、夏目漱石(一八六七生)ら司馬遼太郎の『坂の上の雲』の主人公たちの世代です。
第三期は、明治の半ばから終わりごろに生まれたエリートです。彼らは明治の終わりから昭和初期に大人になり、エリートの地位を手にいれていきました。東條英機(一八八四生)、近衛文麿[このえふみまろ](一八九一生)、広田弘毅[こうき](一八七八生)、重光葵[まもる](一八八七生)、米内光政[よないみつまさ](一八八〇生)らの名前が挙がるでしょう。ハンドルから手を放してしまったのは、この世代でした。
総合知に富んでいた第一期のエリート
第一期のエリートの特徴は、非常に数が少ないことです。まだ日本の所帯が小さかったので、政治的な指導者が大勢いる必要がなかったのです。また、そのほとんどが武士でした。彼らと後のエリートとの最大の違いは、試験で選ばれた人材ではない、ということです。彼らは志士ですから、選抜試験は戦場から殺されずに生きて帰ってくることでした。
生き残る能力を試されながら、「あいつは学もあるし、人柄もいい」と地域の仲間うちでの声望を得ることで、選抜されていきました。その過程では、故郷をともにするものが信頼できる仲間を選んでいく「郷党の論理」がはたらいていました。この論理は、明治政府の藩閥政治を形成していったので、閉鎖的で身内びいきだと評判が悪いのですが、人物を能力だけでなく、家族構成から性格、性癖まで総合的に見られる利点を持っています。
一定の声望を得た人物は、藩や志士集団のなかで、何らかのポストや役割を与えられました。そこで藩の軍艦購入に大いに貢献したとか、藩の外交を担って活躍したといった、具体的な成果を上げた者が、さらに上の地位に上っていきました。今の言葉でいえば、幕末維新のエリートは、徹底した成果主義で選抜されていたのです。