論文
後藤新平から見た日本の赤い系譜

日本研究所 研究員 西智美


後藤新平(1857年~1929年)の足跡を見ると、官僚・政治家としての業績の他に、「後藤人脈」と言うべき人脈を残した。それは官界・政界だけでなく、皇室まで広がっている点が特色である。この論文では「後藤人脈」の形成と、後世への影響への大きさについて論考してみたい。根拠となる資料に関しては、戦中戦後に破棄されたもの、或は非公開のものも多数あるため、未確定要素である事項がある。それについては今後の課題として後世の研究に期待したい。

1.後藤新平一族

後藤新平は二男二女を儲けている。まず、妾との子であり、後に養女とした静子は、東京帝国大学卒で医師の佐野彪太に嫁いだ。佐野彪太の弟は、昭和初期の非合法政党時代の日本共産党(第二次共産党)の中央委員長だった佐野学(1892年~1953年)である。1919年東京帝国大学大学院修了後に後藤新平の後押しで南満州鉄道株式会社東亜経済調査局に入社。20年早稲田大学商学部講師に赴任。22年、日本共産党に入党する。

佐野学は、その後7年間は亡命と帰国、モスクワ、ドイツ、インド、支那と渡り歩いた。28年(後藤新平の訪ソの同年)、コミンテルン第6回大会に出席。同年、中国共産党の周恩来に会い、彼の紹介でコミンテルン代表のゾルゲに会う。

29年、上海で検挙され無期懲役の判決を受ける。同じく共産党指導者で検挙されていた鍋山貞親と共に、32年に突然転向声明「共同被告同志に告ぐる書」を発表。そのため控訴審で懲役15年に減刑となり43年に出獄。48年、早稲田大学商学部講師に復帰し社会思想史・経済思想史を担当した。49年、早稲田大学商学部教授に昇進。

ここで南満州鉄道株式会社東亜経済調査局(※1)について述べたい。当時の日本最高のシンクタンクとして知られるが、ロシア革命以降はロシア・満蒙地域の研究の中心的存在となり、共産主義者の佐野学をはじめ、多くの「思想的前科者」が多数入社した。調査部内には、当時発禁の書だったマルクスの『資本論』が置かれており、調査部員はこれをテキストに勉強会や研究会をしていた[1]。大川周明は1919年に職員となっている。 

後藤新平の娘静子と佐野彪太の息子、佐野碩(1905年~66年)もまた共産党員である。彼は東京帝国大学と新人会の出身である。在学時からプロレタリア演劇活動を行っており、30年共産党への資金カンパで逮捕されるが、保釈された。これは偽装転向文書を出した為か、或は家族の奔走のお陰とも言われている。

なお、父親・佐野彪太が共産党員だったことを示す資料は今のところないが、弟や息子の活動にはとても良く理解を示し、応援していた人物である。祖父・後藤新平も「自分の孫(注・佐野碩のこと)がマルクス主義者として大正時代、女装して逃げ回っていたんですからね、おもしろいじゃないですか。そういうことをとても喜んでいた」[2]

31年、ソ連へ出国し、37年、スターリンに追放されメキシコで活動した。66年に同地で永眠した。母方の従兄弟の鶴見俊輔は佐野碩について言及しており、「スターリンによってソヴィエト連邦から追放された後にも手のひらをかえすように反ソ的にならなかった」と評価している[3]

次は佐野彪太の妹・お順の息子、佐野博(1907年?~没年不詳)である。彼は第七高等学校在学中に、社会主義志向の学生が集まった鶴鳴会(かくめいかい)に入るが、組織の活動の拠点は佐野の自宅であった。23年、佐多忠隆らと「ソ連船乗り込み事件」を起こしている[4]。その後モスクワの国際レーニン学校を経てコミンテルン本部で働いた数少ない日本人である。

28年、コミンテルンの指示で帰国。30年に拡大中央委員会を開き、武装して自衛しながら大衆の前で公然活動する方針が採択される。いわゆる「武装共産党」時代の幕開けである。田中清玄と共に活動した。31年2月、特高警察に逮捕され、獄中生活を送るが、鍋山貞親と佐野学の転向声明後、田中清玄と共に転向した。

次に、後藤新平のもう一人の娘、愛子の系譜である。後藤新平が内閣鉄道院総裁であった1912年、同じく鉄道院に勤務していた鶴見祐輔(1885年~1973年)に愛子は嫁いだ。鶴見は第一高等学校を主席で卒業し、東京帝国大学を優秀な成績で卒業した。新渡戸稲造を師と仰いでおり、「新渡戸四天王」の一人でもある。28年、衆議院議員に初当選(旧岡山1区)を果たす。米内内閣では内務政務次官に就任し翼賛政治会および大日本政治会の顧問としても活動。38年に設立された国策機関・太平洋協会においても運営の中心となった。

鶴見祐輔と愛子の間には二男二女がいる。長女の鶴見和子(1918年~2006年)は社会学者である。1939年津田英学塾を卒業し渡米。41年、ヴァッサー大学で哲学修士号を取得した。42年、第1次日米交換船で帰国。46年、弟の鶴見俊輔、丸山眞男などのメンバーと「思想の科学」を創刊。この頃共産党に入党し50年まで党員だった。

特筆すべきは、美智子皇后陛下との繫がりである。2007年に新宿中村屋本店で催された鶴見和子一周忌の集いには、皇后陛下も臨席された。お立場上、大変難しいお出ましであったことは想像に難くないが、皇后陛下ご自身のたってのご希望で実現したものと言われる。

その際に鶴見俊輔と交わされた会話では、皇后陛下の父、正田英三郎氏夫妻が軽井沢の鶴見祐輔の別荘を訪れたというエピソードがあったという。

その弟、鶴見俊輔(1922年~ )はアメリカに留学し、ハーバード大学に入学した。同大経済学講師の都留重人と出会い、生涯の師とした。

都留重人はF・ルーズベルト大統領政権の財務次官補で、コミンテルンのスパイだったハリー・デクスター・ホワイトに個人的に師事していた[5]。友人にはコミンテルンのスパイ嫌疑により自殺したカナダの外交官ハーバート・ノーマンがいる。また都留重人の妻の伯父は、木戸幸一内府である。

 

2.後藤新平一派の人物像

次に、俗に「後藤閥」と認識されていた人物を含め、後藤新平の交友関係の人物と相関関係を見ていきたい。
後藤新平の多岐にわたる交友関係者の中でも特筆すべき人物は、何と言っても新渡戸稲造である。後藤新平の熱心な勧めで台湾へ渡り、総督府技師として赴任。帰国後、京都帝国大学教授を経て、東京帝国大学教授との兼任で第一高等学校校長となった(1906~13年在任)。在任中に新渡戸の薫陶を受けて弟子になった者は多数である。鶴見祐輔、前田多門、岩永祐吉、田島道治は「新渡戸四天王」と呼ばれた。
非常に興味深いのは、彼ら4人は単に新渡戸の門下生であるだけでなく、新渡戸の上司である後藤新平とも直接の繫がりがあることである。

前田多門(1884年~1962年)は、第一高等学校、東京帝国大学卒業後、新渡戸の勧めで内務省に入省。1916年後藤新平内務大臣の秘書官に起用される。20年、後藤新平が東京市長に就任すると官吏を辞し、助役となる。
 23年、国際連盟の外郭団体ILO(国際労働機関)の日本政府代表に任命されてスイスのジュネーブに赴任。 後、大使館参事官としてフランスに赴く。26年、帰国。
27年、後藤新平のソ連訪問に随行。28年、東京朝日新聞社論説委員となり、10年間勤務した。当時の論説委員には、九大事件で共産主義者の嫌疑により九州帝国大学教授追放された佐々弘雄、昭和研究会と朝飯会両方のメンバーだった笠信太郎、戦後東久邇宮内閣で文部省社会教育局長を勤めた関口泰などがいる。尾崎秀実も26年に朝日新聞へ入社し、記者として勤務している。
43年、新潟県知事に就任、その後貴族院議員に叙せられ、大政翼賛会役員となる。45年、東久邇宮内閣で戦後初の文部大臣に就任。これは近衛文麿の推薦により実現したものである。文相就任中には省内人事を改め、科学教育局長に山崎匡輔東大教授、学校教育局長に田中耕太郎、社会教育局長に朝日新聞社論説委員の関口泰を起用した。またGHQの方針に沿う教育改革を積極的に行い、「天皇人間宣言」を起草している。前田多門の長女の神谷美恵子は父・前田多門と安倍能成の2代の文部大臣秘書であった。
幣原内閣でも留任したが公職追放となる。46年、東京通信工業(後のソニー)の初代社長に就任した。井深大の妻は前田多門の次女勢喜子である。

ここで、後藤新平の2度目の訪ソについて注目したい。ソ連との友好を強固にしたい田中義一首相の白羽の矢が立ったのが後藤であった。後藤は26年・27年の2回も脳出血に見舞われ、言葉や肉体に支障が出ていたにも関わらず、2度目のモスクワ訪問を引き受けた。27年12月23日にモスクワ到着、28年1月22日頃迄の1ヶ月滞在した。随員は以下の通りである。
田中清次郎(日露協会理事・前満鉄理事)・関根斉一(日露協会理事)・前田多門(前述)・八杉貞利(東京外国語学校教授・ロシア語学者)・森孝三(秘書)・引地興五郎(後藤のかかりつけ医)・佐藤信(雑役)[6]
この訪問は非公式なものながら、首脳級のもてなし・扱いを受けている。後藤の会談日程は以下の通りである[7]

書記長スターリン 1月7日・14日
ソ連邦中央執行委員会議長(名目上の国家元首)カリーニン 12月31日
外務人民委員部(外相に相当)チチェーリン 12月29日・1月21日
外務人民委員代理カラハン 12月24日・29日・1月9日・16日・18日・19日
外務人民委員第一代理リトヴィーノフ 1月3日
中央利権委員会議長クサンドロフ 12月28日
外国貿易・国内商業人民委員ミコヤン 1月7日
人民委員会議議長ルイコフ 1月13日

スターリンとの会談は、異例であった。なぜなら当時スターリンは外国の共産主義者以外の人物とはあまり会わなかった為である。後藤に先立って実業家久原房之助(日立製作所創立者・田中義一首相の友人)使節団が同年11月にモスクワを訪れ、スターリンと会談したのも異例だが[8]、後藤新平とは2度も会談を行っている。異例中の異例と言わざるを得ない。
尚随員の森や八杉は、チチェーリン、カラハン、ロスタ通信(後にタス通信)の責任者ヤコフ・ドレツキーと話し合いの場を持った。
会談記録によると対談テーマは中国問題・利権協定問題・漁業協約問題の3つで、スターリンとは特に中国問題を話し合ったとされている[9]
その間前田、関根、田中清次郎などは何をしていたのだろうか?ソ連側の誰とも接触しなかったのだろうか?また、非常な親ソ派として知られる後藤新平が、これらの主要人物達と話したテーマは他になかったのだろうか。記録には残っていないが、他の人物、例えばコミンテルンの大物と会っていた可能性もある。
共産主義者以外の人物とほとんど会わないスターリンが、2度も後藤の為に時間を割いたことを鑑みても、後藤の使命はそれ以上のものがあったのではないか、と推測できる。しかも、丁度この時期は親戚の佐野博がコミンテルン本部で働いていた時期でもある。接触があったとしてもおかしくはない。

前田多門一家は天皇ご一家との関係が深い。長男・前田陽一は東京大学名誉教授・フランス文学者で、皇太子時代の今上天皇にフランス語を教えた。妹の神谷美恵子は、父・前田多門がILOの日本政府代表任命に伴い一家でスイスへ赴いた時にジャン=ジャック・ルソー教育研究所付属小学校へ編入学している。後に精神科医となり、皇后陛下の皇太子妃時代の相談役であった。また兄の陽一からミシェル・フーコーを紹介され、『臨床医学の誕生』『精神疾患と心理学』の翻訳をしている。
次女・勢喜子は井深大と結婚し、後に離婚した。三女・とし子は片桐良雄という人物に嫁いだ。
片桐良雄は1963年4月から65年6月まで財務参事官を務めた後、伊藤忠商事副社長となった。
この頃の伊藤忠商事には瀬島龍三がおり(58年入社)、破竹の勢いで昇進していた頃である。片桐が財務参事官を辞めたのは65年6月。瀬島が伊藤忠商事専務に昇進したのは68年。

岩永裕吉(1883年~1939年)も後藤系官僚である。第一高等学校、京都帝国大学を卒業した。1911年、後藤新平の後押しで南満州鉄道株式会社に就職。17年、鉄道院に移り、後藤総裁の秘書官、次いで同院参事・文書課長に昇進。18年、寺内内閣が総辞職すると鉄道院を退官して渡米、新渡戸稲造や鶴見祐輔らと訪欧する。21年、渋沢栄一らが設立し、外務省の補助も受けていた国際通信社に迎えられ理事・専務理事を歴任する。国際通信社は26年に東方通信社と合併し、報知・毎日・東京朝日・時事等の八大新聞社が加盟する日本新聞聯合合社(略称聯合)が発足するが、そこで岩永は専務理事に就任した。
更に、国策機関として電通と聯合が合併して創立された社団法人同盟通信社では初代社長に就任。国内外の通信の入手と配布を独占した同社は大きな影響力を持っていた。戦後GHQによって解散させられ共同通信社・時事通信社に分かれた。岩永裕吉の長男信吉は共同通信社常務理事と電通取締役(1969年~71年)を務めていたことから、岩永親子は戦中から戦後までマスメディア界での一定の影響力を保持しており、それが後藤新平の評価を実際以上に高めることになった。

最後に、田島道治(1885年~1968年)に触れる。第一高等学校を経て、1910年東京帝国大学を卒業。東京帝国大学時代には新渡戸稲造を敬愛し、新渡戸家に書生として住み込みをした。翌年愛知銀行(後の東海銀行)に入行するが、16年、鉄道院総裁の後藤新平に引き抜かれ総裁秘書となる。19年、後藤新平、新渡戸稲造、鶴見祐輔、岩永裕吉らとともに外遊をしている。帰国後の20年、愛知銀行に戻り常務取締役に就任、と銀行畑に戻った。その後数行を経て、45年日本銀行参与も務めた。
48年、芦田均首相によって宮内府長官に任命される。新渡戸門下生であり、田島の東京帝国大学後輩でもある三谷隆信侍従長とGHQの意向に沿った戦後の宮中改革に尽力した。53年、長官を辞し、東京通信工業(後のソニー)の監査役に就任。取締役会長、相談役を歴任した。これは前田多門との繫がりで実現したであろうことは想像に難くない。
なお田島の長男・譲治は学習院大学名誉教授で、皇太子殿下にフランス語を教えている。その妻周子は松岡洋右の長女である。

 

3.後藤人脈の属するグループ
後藤人脈はいくつかのグループに分類できる。

●小日向会
新渡戸自身が門下生やクェーカー教徒を中心に集めたグループである。会員には各界の名士や学究者が多いが、全員がクェーカー教徒とは限らない。前田多門が参加の呼びかけをしたため東京帝国大学出身者が多い。
会員:田島道治(初代宮内庁長官)
矢内原忠雄(東大総長)
神谷美恵子(精神科医・皇后陛下の相談役)
前田陽一(フランス文学者・天皇陛下のフランス語教師)
後藤隆之介(昭和研究会主宰者)
三谷隆信(宮内庁侍従長)
松本重治(公爵松方正義の孫・西園寺公一とは親友)など。

●昭和研究会
後藤隆之介が創立した近衛文麿のブレーントラストである。近衛の為の国策研究機関創立に当たって、後藤隆之介は師・新渡戸稲造に助言を求めたところ、激励の言葉をかけられ大いに喜んでいる[10]
新渡戸は国際主義者、自由主義者として賛美されているが、国際連盟勤務を終えて帰国した後、「僕はムッソリニはワシントン以上の人だと思ふ」「僕は所謂デモクラシーに愛想をつかしてゐる」と語っている。新渡戸の主義思想は西欧型デモクラシーではなく、マルクス・レーニン主義のソ連寄りである[11]
【メンバー】
前田多門
田島道治
佐々弘雄
尾崎秀実(朝日新聞記者・近衛内閣の内閣嘱託)
笠信太郎(朝日新聞論説主幹)
関口泰(朝日新聞論説委員)
芦田均(首相)
矢部貞治(東京帝国大学教授)
牛場友彦(近衛文麿の側近・内閣総理大臣秘書官。岩永裕吉の子分)
蝋山政道(吉野作造の影響を受けた社会主義者)
平貞蔵(新人会結成者、社会思想家、吉野作造に師事)

●朝日新聞
前田多門(論説委員)
佐々弘雄(論説委員)
笠信太郎(論説主幹)
関口泰(論説委員)
尾崎秀実(記者)
緒方竹虎(副社長)

●1942年第1次日米交換船で帰国した人物
都留重人(ハーバード大学講師)
鶴見俊輔(留学生)
鶴見和子(留学生)

●東京帝国大学新人会
吉野作造の影響を受けた学生運動団体である。前期は「ヴ・ナロード」(人民の中へ)の旗印のもと、労働者への社会主義思想の啓蒙活動を精力的に行った。1921年以降はロシア革命やマルクス主義思想が主流になった。26年の日本共産党(第二次共産党)再建後、同党の下部組織としての役割を果たした。
【会員】 ※◎は後藤人脈
◎佐野学
野坂参三(日本共産党議長、コミンテルンのスパイ)
蝋山政道 
平貞蔵
佐々弘雄
田中清玄
◎佐野碩
佐多忠隆(企画院調査官。企画院事件で投獄)
後藤寿夫(林房雄)
大宅壮一

●東久邇宮内閣(1945年8月17日~10月9日)
組閣に当たって近衛文麿が相談役に、組閣参謀に朝日新聞社副社長であった緒方竹虎が選ばれ、朝日新聞関係者が多数入閣。「朝日内閣」と言われた。
内閣総理大臣 東久邇宮稔彦王
文部大臣 前田多門
国務大臣(無所任) 近衛文麿
内閣書記長官長(情報局総裁を兼務) 緒方竹虎(元東京朝日新聞社副社長)
総理大臣秘書官 太田照彦(朝日新聞者論説委員)
緒方竹虎秘書官 中村正吾(朝日新聞社記者)
内閣参与 田村真作(元朝日新聞社記者)

後藤新平に連なる人脈を俯瞰すると、2つのことが見えてくる。
1つ目は、後藤人脈は政界、官界、学会、マスメディア界、果ては皇室まで広く深く広がっている。
人物相関図②で示したように、後藤新平の孫の鶴見和子と皇后陛下、また部下である前田多門の長男・前田陽一と長女・神谷美恵子はそれぞれ天皇陛下と皇后陛下との繫がりがある。後藤新平は古くからの貴族でも、薩長土肥の出身でも、東京帝国大学出身のエスタブリッシュメントでもないことを考えると、驚くべき人脈と言えないだろうか。

2つ目は、思想的に「左」の人物が後藤の周辺に圧倒的に多いことである。そもそも後藤自身が反英米派で、死の前年にも訪ソを果たし、スターリンと2度も会見している。娘・静子の嫁いだ佐野家は、既に述べた通り共産主義者が多い。娘・愛子の嫁ぎ先の鶴見家も、鶴見祐輔の娘は共産党員の鶴見和子、ハリー・デクスター・ホワイトの教えを受け、コミンテルンのスパイのハーバート・ノーマンを友とする都留重人を師と仰ぐ息子・鶴見俊輔、と「真っ赤」である。二人の娘の嫁ぎ先がどちらも「赤」であったのが偶然とは考えにくい。
後藤の直系官僚である「新渡戸四天王」も「赤」であるのは疑う余地はない。彼らに連なる各界の人物達も同様だったことも想像できる。
現在の認識以上に、戦前の日本は真っ赤だった。「赤」は軍部・官僚・マスコミの一部だけではなかった。その系譜は戦前・戦中・戦後、そして現在も連綿と続いているのだ。

本論文の執筆にあたり、日本研究所所長 鴨下豊氏に多大なご指導を賜り、深く感謝申し上げる。

 

(※1)南満州鉄道株式会社東亜経済調査局・・・当該部局の名称は時期によって「調査部」「調査課」「調査局」などと異なる。「東亜経済調査局」「経済調査会」など本来の「調査部」以外の満鉄内調査機関も一般には広義の「調査部」と見なす。「満鉄調査部」とも言う。1907年、後藤新平総裁の発案により発足した。

 

参考文献
[1]小林英夫「満鉄調査部 「元祖シンクタンク」の誕生と崩壊」(平凡社新書、2005年)
[2]鶴見俊輔「祖父・後藤新平について」(『時代が求める後藤新平』所収/藤原書店編集部、2014年)
[3]鶴見俊輔「佐野碩のこと」(『鶴見俊輔集11 外からのまなざし』所収/筑摩書房、1991)P171
[4]久米雅章他「鹿児島近代社会運動史」(南方新社、2005)P110~112
[5]都留重人「都留重人自伝 いくつもの岐路を回顧して」(岩波書店、2001年)P65
[6]ワシーリー・モロジャコフ「後藤新平と日露関係史 ロシア側新資料に基づく新見解」(藤原書店、2009)P215
[7]同前、P221
[8]同前、P210
[9]同前、P221~240
[10]酒井三郎「昭和研究会」(中央公論社、1992)P14~15
[11]駄場裕司「後藤新平をめぐる権力構造の研究」(南窓社、2007年)P200~201