TRIVIA - 野球史研究の第一人者、森岡浩さんが全国から集めた、100年を迎えた高校野球にまつわる“とっておき&あるある話”。

高校野球トリビア

ヤミ屋と間違えられた学校

2015年6月18日

 戦後初の開催となった1946年(昭和21)夏の大会では、食糧は各出場校の持参であった。しかし、終戦直後で食糧事情は悪く、学校によっては満足な食糧を確保できないこともあった。鹿児島商もわずかな米とイモを持参して甲子園に向かった。
 『鹿児島商業高校野球部100年史』には、「大阪駅に着いた後、軍服や父親のお下がりなどの服に大きなリュックを背負って歩く一団は、闇屋に間違えられた。警察に捕まり、曽根崎署に引っ張られ、リュックのコメが見つかって、『お前ら若いくせに集団で闇屋をするのか』と怒鳴られた」とある。
 戦後は米不足のため、米は政府による配給制度だったが、農家が配給に回さない米を生活必需品と物々交換する闇米が出回り、これを仲介する闇屋が横行していた。鹿児島商の選手はこの闇屋の集団と間違われたのだ。
 鹿児島商は大会2日目に一関中(現 一関一・岩手)と対戦、11―4でくだして初戦を突破した。米どころにある一関中ではOBの活躍で6、7俵もの米が集まり、それを甲子園に持参していたが、初戦で敗れたため持ってきた米が余ってしまった。そこで、OBが鹿児島商の宿舎を訪れ、残った米を差し出した。
 このエピソードが1975年夏の大会の際にNHKで紹介されると、のちに鹿児島商から一関一高の同窓会の際にお礼があったという。

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