(2015年8月19日放送)
実際の戦争体験を語れる世代が少なくなる中、その悲惨さを記録して残そうという動きが盛んです。
しかし70年たった今もなお、辛い記憶を心に秘め、口にすることをためらう人もいます。愛知県田原市で進む、ある空襲の調査を通して、戦争の記憶をつないでいくことの難しさを名古屋放送局・伊藤洋平カメラマンが取材しました。
空襲とは無縁の街
愛知県東部の渥美半島に位置する田原市。畑の広がる郊外の街は戦時中も空襲とは無縁でした。
しかし、終戦の1日前の昭和20年8月14日、町を走っていた電車に米軍機が襲いかかったのです。
線路の側には今も小さな慰霊碑が残されています。
詳しい被害は不明
その時、襲われたのは豊橋市と渥美半島を結ぶ名古屋鉄道渥美線でした。電車は学徒動員で工場に通う学生たちも多く使っていました。
この空襲でどれだけの人が亡くなったのか。市の博物館に唯一の記録が残っていました。
「15人が即死、16人が重軽傷を負った」と書かれています。
亡くなった多くは若い学生でした。
しかし、その被害の実態は詳しくわかっていませんでした。
埋もれた歴史
この空襲の実態を去年から調べているのが山田政俊さんです。地元の小学校で教師をつとめ、引退したあとも郷土史の研究を続けてきました。
しかし、専門家の山田さんでもこの空襲のことは知らなかったといいます。
「この空襲のことは全く知りませんでした。聞いたこともありませんでした。一番びっくりしたのはなんと言っても八月十四日という終戦前日の悲しい出来事だったということです」
歴史を残したい
自分の街の歴史を残したいと山田さんは関係者への聞き取りを始めています。
この日は、当時、乗客が運ばれた病院の看護師に話を聞きました。
すると、看護師は「2歳か3歳かの赤ん坊の内蔵が飛び出してしまって、お母さんらしい人も傷を負ってひん死の重傷だった」と話し、犠牲者の中には幼い子どもを連れた母親もいたことがわかりました。
山田さんのためらい
山田さんはこれまで50人を超える人から話を聞いて当時の実態を明らかにしてきました。ことし秋には証言集をまとめて発行する予定です。
山田さんは、証言集をだす前に必ず話を聞くべきだと思っている人たちがいました。それは突然、大切な家族を奪われた遺族の人たちです。
しかし、山田さんは遺族から話を聞くことにためらいがありました。
「私の方は根掘り葉掘り、これはどうでした、あれはどうでしたかというふうに聞くのですけど、それがはたして相手にどんな気持ちを与えるかなぁと」
遺族の証言
そんな葛藤を抱える山田さんに、遺族のひとりから、当時の話をしてもいいと連絡が入りました。
田原市にすむ川口武さんです。
当時15歳だった川口さんはあの空襲で母親を亡くしました。
川口さんは、母の遺体を運んだときの様子を「大八車を近所に借りて、病院までおふくろを連れに行った。その時、母親は大腿部が機銃にあたって、もうほとんど片足しかなかった気がする」と静かに話しました。
本当の気持ち
実は川口さんは、母を失った時のことはこれまで家族にも話してきませんでした。
「正直言って、孫が2人いますが、孫と子供には一切話していない。こんな悲しいことを、あまり出さないほうがいいと思う。自分がそういう目にあっているから、そういう悲惨なことを、私は継承したくないというのが本音です」とその理由を打ち明けました。
山田さんが初めて聞けた遺族の本当の気持ちです。
今なお癒えぬ衝撃
8月12日、山田さんは、調査に協力してくれた人達や遺族を招いて慰霊祭を開きました。
川口さんにも声をかけましたが、この日、川口さんは最後まであらわれませんでした。
その理由をあとで尋ねると「あの場所に立つのはまだ辛い」と川口さんは答えました。
山田さんは「70年経っても、自分が高齢になっても、そういう気持ちになれないということは、それほど心に衝撃を受けたのではないかと思うのです」と川口さんを気遣います。
記憶をつないでいくことの難しさを噛みしめる山田さんですが、今後も調査を続けていくといいます。
のどかな半島で起きた終戦直前の悲劇。70年経った今なお、伝える言葉を失わせる程の深い傷を、人々の心に残しているのです。