磯田道史「無私の日本人」の、"穀田屋十三郎"を改めて読んでいます。
伊達娘がどういうふうにして出てくるかと思いながら読んでます。
それにしても、これは正直言って地味な物語です。
一般人にとっては、上司に対して異なる意見を述べることでさえも難しいことなので、いくつも上の仙台藩を動かしたというのは痛快なはずです。
然るに、映画一般を考えた場合、宇宙人が襲ってくるとか、ものすごく突拍子もない内容が多過ぎて、どうしても地味になってしまうのです。
ストーリーとして痛快であっても、全国公開するとなると何か足りない気がします。
映画よりも先に舞台化すべきだったかなあとも思うのですが、ひとつひとつ課題をクリアしていく感覚が、(ものごとを進めるには大事とはいえ)映画にも舞台にも向いてない感じがします。
心躍らされるものがないというか。
藩が農民を統治する関係とか、藩が借金をすることなど、いまの日本となんら変わっていなく、日本は元号を平成ではなく"江戸412年"とでも言っていいくらいにいまと変わっていない気もします。
たとえば、現代の日本人が、現代とこの時代を自由に行き来できたとして、十三郎らの明るい将来を見届けた後で、現代に帰ってきて国債残高に茫然とする、というストーリーなんかも面白い気はしますが。
十三郎らの企ては、良民に恵まれたから成功したように書かれているように思えますが、日本で幾度となく一揆が起きていることからも、日本人は徒党を組むのは決して苦手ではないように思えます。
ヤルときにはヤルのです。
いまの日本人が、ヤルときにさえやれなくなっているだけに思えます。
一揆を、村の仲間が密告する率ってどれくらいだったのでしょうね?
庄屋が一揆を認めた場合、いくら密告してもそれこそ後々村八分になりそうなので、一揆を村の仲間が密告する率って低かったのではと想像します。
そこまで想像すれば、やはり"穀田屋十三郎"では、やや幸運な偶然を強調しているきらいはあると思います。
けれども、幾多の困難を乗り越えた功績は、賞賛に値するとは思います。
私がやっていることは、"穀田屋十三郎"よりもはるかに壮大で、その分為政者からの攻撃がすごいです。
私の困難を見ながらも、なんらの手助けもできない者たちは、それだけ為政者の脅威に怯えているのです。
いまの日本はそこまで自由がなくなっています。
"穀田屋十三郎"の脇役くらいの働きをする者さえも、出て来られないことへの憤懣はあります。
だからこそ、私が一人でこの問題を表舞台に出す意義は大きいのです。
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