「文章のお作法」的な本を読むと、決まって書いてある文言がある。
曰く、「わかりやすい文章を書こうとするのなら、文体は〈敬体〉か〈常体〉のいずれかに統一しよう」というもの。いわゆる「です・ます調」を選択するのか、「だ・である調」を選択するのか、という視点ですね。
遡れば、小学校の作文教育の頃から、ずーっと言われ続けていたような記憶がある。基本的には「ですます」で書くのがルールであり、決まりのない感想文などにおいても、どちらか一方に統一しなければならない、と。混在していれば、赤ペンで修正されるのが当然でした。
大人になった今でも、何かの文章を書く際にはどちらかを選ぶのが、基本中の基本でござる。学校の小論文や卒業論文、会社の資料作成、あとはどこかのウェブメディアを記事を執筆する際にも、やはり〈敬体〉or〈常体〉が決められている印象が強い。
――だからというわけではないのだけれど、このブログでは「この文体で統一する!」ということは特に決めずに、自由気ままに文章を書き散らしております。ここまで400字、読み返してみても、すでに文体はバラバラ。一口に言えば、「それがしっくりくるから」という理由なのですが、今回はちとその辺の「文体」について思うことをば。
丁寧さをもたらす〈敬体〉と、共感を訴えかける〈常体〉
けいたい【敬体】
口語の文体の一。文末に「です」「ます」「でございます」などの丁寧語を用いて統一した文章様式。また、その文体。
じょうたい【常体】
口語文体の一。敬語を用いず、文末に「だ」「である」などを用いる普通の文章様式。
辞書を見ると、それぞれの説明は上記のようになっておりました。面と向かって話すときの「丁寧語」とほぼイコールの、丁寧な文章の書き方が〈敬体〉。逆にそのような敬語の類は用いず、「タメ口」に近い印象をもたらす文体が〈常体〉。
どちらが優れているかという話ではなく、いずれもケースバイケースで使うことが望ましく、使うように推奨される、「文体」の一種。その文章がどういった目的で書かれたもので、どのような人に読まれるのを想定しているかによって変わってくるもの、ですね。
ことブログに限って言えば、基本的には〈敬体〉で文章を書くことが推奨されているような印象があります。〈常体〉はどうしても断定口調としての要素が強くなり、読んでいる側からしてもなんとなく「強さ」を感じてしまう言い回しなので。
そのため、余計な諍いや炎上を避けようとするのなら、丁寧さや敬意が感じられる〈敬体〉のほうが安定している、ということらしいですね。そりゃまあ、誰が読んでいるかわからない以上、最低限の敬意を示すうえでも、確実と言えるのではないかしら。
一方で〈常体〉は、その言い切り型の口調と語尾の短さから、読み手に共感をもたらしやすいようにも見える。特に日記などの「自分語り」において使われる〈常体〉によって、書き手の主観がダイレクトに伝わってくるように感じるのは、僕だけだろうか。
接続詞を排除していくつかの文章を並べてみるとわかる。いちいち「〜ます」「〜でした」と一呼吸置くような〈敬体〉の文章と比べても、「〜だ」「〜である」とさくっと区切る〈常体〉の文章はテンポが良く読みやすい。文中の表現によっては、詩的ですらあると感じる。
――というのは、僕個人の印象論でしかありませんが、これらふたつの文体は明らかに異なる印象を読み手に対して与えるものだし、文章の書き方・伝え方を考えるにあたっては、決して無視できない要素なのではないかと思います。
〈敬体〉と〈常体〉が混在した文章
この〈敬体〉と〈常体〉。言うまでもなく、一本の文章においてはどちらかひとつに統一するのが基本中の基本であり、両方がないまぜになっているものはイレギュラー。少なくとも紙媒体ではあまり目に入らず、ネットでも、編集がしっかりしているメディアでは見ないものかと。
ところがどっこい。かと言って、ふたつの文体が混在している文章が限りなく少数派である、というわけでもありません。それに、媒体によって統一されたルールがそれぞれにあるならばいざ知らず、ルールがない環境では、無理にどっちかに決める必要もないと思います。
例えば、ちょうど今読んでいる本の文章も、以下のように〈敬体〉と〈常体〉の混在型となっていました。
実は先日、知人の学生数人とひとつ今日はガール・フレンドに手紙を書く練習をしてみようと遊んでみました。まだ恋人ではない、大いに好意を持っているが、とてもまだ手紙を書くだけの勇気のないガール・フレンドがあなたにはいないでしょうか。おられたら、まず深呼吸を四度やって、そのお嬢さんの顔を頭に思いうかべるのである。既に女房をお持ちの方は仕方がない。隣の家の奥さんの顔でも心の中に想像して頂きたい。不幸にして、隣の奥さんが七十二歳になる梅ボシ婆ぁである方は、仕方ない、自由にお知りあいの娘さんのことを考えて頂こう。
この文章の続きは「〜です」の形になっており、本全体としても基本骨子は〈敬体〉で書かれているという印象でした。そもそも本書は「手紙の書き方」という「文章論」の一種と言っても差し支えのない本ではあるのだけれど、ご覧の書き口。
こうした、基本〈敬体〉の文章に差し込まれる〈常体〉の言い回しは、〈敬体〉に直すとかえってテンポが悪くなるケースが往々にしてあるのではないかと思うのです。というか単純に、文末が同様表現の繰り返しになって味気ない、と言いますか。
言い換えれば、それは〈敬体〉表現の幅の狭さによるのかも。「です」「ます」「でした」「ました」「でしょう」「しましょう」「しませんか」「ください」――過去形を含めても、パッと思いつくかぎりでこのくらい。音にしたときの響きも似ているし、何より長い。
そのように考えると、統一されたルールのない「ブログ」という環境においては、無理に「こうしなきゃ!」と文章に制限を加えるのはもったいないにも思う。もちろん、運営方針や読者層によっても変わってくるでしょうが、「混ざっているからダメ」ということはないと思うのです、はい。
自分の「地の文」は〈敬体〉?それとも〈常体〉?
そこでひとつ考えておきたいのが、自分の「地の文」が〈敬体〉と〈常体〉のどちらであるか、という部分。特に何も意識せずに「文字」としての文章を書いてみたときに、「ですます」寄りの〈敬体〉になるのか、「である」寄りの〈常体〉になるのか。
それをあらかじめ確認しておけば、混在型の文章を書くときに“遊びやすく”なると思うので。〈敬体〉本位なら〈常体〉を織り交ぜるように、〈常体〉本位なら〈敬体〉を織り交ぜるように文章を組み替えることで、表現の幅を広げることにつながるのではないかしら。
例えば、自分が書いた上の4つの記事。内容と文体は割と淡々としたものですが、1と2は〈敬体〉、3と4は〈常体〉になっており、読んでみるとまったく違った印象を受ける文章になっているのではないかと思う。
ただ、それを自分が書いたものとして読んでみると、正直なところ、〈常体〉オンリーの文章には違和感しかないんですよね……。3と4に関してはブログと同じく混在型の文章として原稿を提出したら、編集さんに〈常体〉として統一された格好です。
モヤモヤの正体はおそらく、主に「だ」のせい。人様の文章として読めば特に違和感はないのですが、混在型の文章ですら自分が普段はあまり使わない“断定”の「だ」が、なんとなく気にかかるのです。これは、編集していただかなければ気が付かなかった。
――と考えれば、自分の「地の文」は〈敬体〉寄りであることがわかる。結果、そのうえでどういった文章構成をするのか、スパイスとしての〈常体〉をどのように加えるのか、といったことにも思考が及ぶようになりました。語彙表現ひとつ取っても、丁寧な文体に合う言い回し・合わない言い回しがあるので。
それによって「ぶんしょうりょくが ぐーんとあがった!」といったメリットがあるかどうかはともかくとして、文章のマンネリ化を防ぐことにつながる点は間違いないと思います。あれやこれやと試してみるのは、楽しいものですし。よかったら、どうでしょうか。
十頁だけ読んでごらんなさい。十頁たって飽いたらこの本を捨てて下さって宜しい。
- 作者: 遠藤周作
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