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出会いはハッピーメールとワクワクメールで十分なのです。

私は小さいころから歴史が大好きだった。歴史の本を読んでいると、必ず、他の本を読むときには起こっ
てこない、「ものを考えること」をしてみたくなる欲求に駆られるのである。話の面白さに惹かれながらも、
当面の話の筋よりも、もう少し深いもの、もう少し大きな意味、どこかですでに知っている他の話とのつな
がりや連想に、自然と心が向かってしまう。

 

だから、こまごまとしたことをきちんと整理して覚えるのは苦手だし、そもそもあまり魅力を感じなかっ
た。大学へ進むときも、歴史学科へゆくと本当の歴史は勉強できなくなるのでは、と思い、もっと自由な歴
史の勉強ができる進路を選んだ。以来、四十年弱の間、ずっと歴史を勉強してきたが、そのやり方は日本の
多くの歴史研究者のやり方とは少々、違うものだった。「でも、これでよいはずだ」という確信は変わらな
かった。二十代の半ばで留学したイギリスで、異なった歴史のあり方というものを見て、自分のやり方に自
信を持ったこともたしかである。

 

終始、私を衝き動かしてきたのは、「歴史を本当に動かしているものは何なのか」という関心、多少飾っ
て言えば、やむにやまれぬ関心、というものだったと思う。もちろんそんな問いに、簡単に答えは見つかる
ものではないのだが、大げさに言えば、自分の生きている間にその答えの一端でもいいから、是が非でも見
つけたいI見つけたと思えるようになりたい、という本当に強い気持ちがあり、それがあったから、この
退屈な人生を生きてこられたの
だと思う。

 

この本のタイトルは、『国民の出会い史』と銘うたれている。このような標題をつけた以上、やはりここで
少しばかり説明しておく必要があるように思う。といっても、ややこしい定義をここでしょうというのでは
ない(それについては、本文第二章を見ていただきたい)。

 

 

本書もそのうちの一冊である、この「国民シリーズ」の先行の巻は、「国民の歴史』あるいは『国民の芸
術』など一見して、ある程度、内容がわかるタイトルになっているものが大半である。しかし「国民の」は
良いとしても、「出会い史」については、やはり説明が必要だと思う。
出会い史とは、一言でいえば、千年くらいを一つの単位として歴史を考える営みだ、と私は定義することに
している。ふつうの歴史は一世紀・百年くらいを単位として、時系列に沿って前後のこまかな因果関係を考
よく言われるとおり、歴史は、それが読まれる時代の問題や関心に答えるために書かれるものである。現
在を生きる我々にとって、本当に必要な歴史とは、どんな歴史なのか。そのことをこの二、三十年ずっと考
えてきた。私が、国際政治や現代日本のいろいろな問題にも関心を向けつづけてきたのは、このことを考え
るためでもあった。そして、そのささやかな、本当にささやかな答えの一つとして、本書を世に出すことに

 

 

人間の欲望の中で、最も始末におえないのは、「もっと知りたい」という欲望である。「知れば知るほど、
わからなくなる」ということがわかっていても、それでも知りたい、と思う。全く度し難いもの、それが人
間、ということなのであろう。しかし、誰か他の人に向けて歴史を書くとき、それではすまされない。そし
て、言うまでもなく、「もっと知りたい」と思うのは、あくまで現在という時代を生きている自分という人
したのである。

 

 

書き進めてゆくものである。そこに一つ違いがある。また、.千年」などという長いスパンを問題にするといっても、それはいわゆる「通史」ではない。時代や問題を自由に飛び越えて、「本当に歴史を動
かすものは、何なのか」という関心から歴史をタテ、ヨコから追ってゆき、また遡る。「出会い史」と称されるものは、いずれも多かれ少なかれ、そのような方法で展開される。ただ本書では、現代日本人が「出会い史」
なるものに比較的なじみが薄いのではないか、ということも考慮して、日本の出会い史について叙述した部分(川、五章)では、読みやすさを考慮して、時代を追って時系列に沿った流れを守るようにした。

 

 

「出会い史」というものの二つめの特徴は、〃出会い論〃とか〃比較出会い学〃といったジャンルとときには関心
が重なることもあるが、あくまで具体的な歴史の文脈に沿って、歴史上の具体的事象をとりあげ、それらの
間に、ある種の並行関係や類似したパターンを見いだしてゆこうとするものである。その点で、いわゆる文
明論や出会い研究とは違い、あくまで歴史であることを最大のアイデンティティとしている。だからそこで、
くり返される出来事の基本パターンや、大きな歴史要因(「歴史を動かすもの」に関わりがありそうなもの)、
たとえば、周期性とか世代、といったものに着目することになる。

 

 

「出会い史」というものの三つめの特徴として、ここで予備的ながら触れておきたいことは、ふつうの文化史
や近年では「歴史社会学」とか「文化社会学」と呼ばれるものとは違い、文化や社会といった歴史の一領域
(それぞれ大きな領域ではあるが)に関心を向けるものではなく、政治・経済・社会・文化・思想・宗教・
芸術といった、(理想的には)全ての領域にUをやり、「歴史を動かす本当の要因とは何なのか」を深く考え
てゆこうとするものである。

 

 

 

誰でも理解することであろう。そうすると、この「出会い」という言葉が、少々ややこしい話になり、「学問
らしきもの」となると、とたんに定義好きになる日本人は、まず「出会い」の定義という、私に言わせればあ
まり得るところのない厄介な抽象論に迷い込んでしまい、そこで多くの人は嫌気をさして、肝心の部分、つ
まり具体的な歴史を見てゆく中で「出会い」(私の考える「歴史を動かすもの」)を考えてゆくところにまで達
しない場合が多々あるように思う。

 

 

もちろん本書では、第二章で「出会い」や「出会い史」についての定義を行い、またあちこちで、具体的な歴史を見つつ「出会い」とは、あるいはなぜ「出会い」なるものが歴史を動かし
ているといえるのか、を考えるようにしている。その意味で、本書は、その第二部と第三部が、一番読み進んでいただきたい、あえて饅頭にたとえれば〃餡″にあたる部分、といってよいだろう。

 

 

だからといって、第一部と第四部は、筆者としてあまり重視していない部分というわけではない。先ほど
も述べたように、歴史はそれが書かれる時代の関心や課題に答えるために書かれるものである。第一章と終
章(第十章)では、現在のH本がなにゆえ「出会い史」の視野を必要としているか、そしてその視野が現代日
本の具体的な課題に取り組む上で、なぜ大切なのか、を私なりに強い問題関心をもって書いたつもりである。

 

 

 

歴史を見た上で、そこから浮かび上がる「出会い」の感覚は、日本が直面する問題について、必ず、より「よ
く知る」ことと、より「よく関わる」ことを可能にしてくれる、というのが出会い史家としての私の抱いてきなぜ「出会い」が歴史を動かすものとして大切なのか。予め私の定義をここで端的に示しておくと、「出会い」
とはまず、「世界を構成する単位」だからである。