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【社会】市民オケの草分け「群響」70年 戦後 音楽のある幸せ
敗戦直後の空虚感が漂っていた1945年11月、日本の市民オーケストラの草分けとなる楽団が群馬県高崎市で産声を上げた。今年70周年を迎える、のちの「群馬交響楽団」だ。今では500回を超える定期演奏会の初のステージで第2バイオリンを務めた顧問松井一雄さん(91)は戦争の苦難を乗り越え、自由に演奏できる喜びに浸ったことを今も鮮明に記憶している。 (大沢令) 松井さんの音楽との出会いは十三歳ごろ。友人に演奏会に誘われたのがきっかけだった。中古のバイオリンを手に入れ、地元の楽団に入ったが、戦況は次第に悪化。「翼賛壮年団音楽挺身(ていしん)隊」と名前が変わり、軍需工場の慰問は「暁に祈る」や「軍国の母」など戦意高揚の曲ばかりだった。「アメリカの曲はだめだった」 松井さんは海軍で敵潜水艦の種類をエンジン音で探る訓練を受け、青森県・大湊の駆潜艇(くせんてい)の部隊に配属された。終戦の日は機雷掃海の任務で富山県の伏木港にいた。敗戦が伝わったその日夕、白旗を掲げる船を見て情けない思いがしたという。 終戦の年の十一月。「父死ス」の電報で高崎に帰った松井さんは、群響の前身「高崎市民オーケストラ」のメンバーに加わる。入隊して、「生きては帰れないだろう」と一度は手放そうとしたバイオリンを手に臨んだ翌年三月の第一回定期演奏会。満員の聴衆から送られたのは、驚くほどの拍手だった。「音楽を自由に楽しめる平和が訪れた実感に市民も興奮したのだと思う」と回想する。 楽団は演奏会の収入だけでは運営できず、村の集会場などをめぐる移動音楽教室を始めた。松井さんは「おんぼろバスで回ったが、客が集まらず、おかゆもすすれないと嘆いたこともあった」と振り返る。 五五年には、岸恵子さんらの出演で草創期の群響をモデルに描いた映画「ここに泉あり」(今井正監督)が封切られヒットした。この年、二歳の長男が用水路に転落、事故死する不幸もあった。自責の念で「代わりに死んでやりたい」と思い詰めた。そんな時、戦地に向かう前に弾いて好きだったシューベルトの「未完成」が心の傷を癒やしてくれたという。 家族を養うため鉄工関係の仕事を優先し、演奏の表舞台からは退いた。地方でオーケストラは経営が苦しい。「あした食べるコメもないくせにラッパなんか吹いて」。そんな陰口もあったが、本拠地の群馬音楽センター(高崎市)の寄付集めやチケット販売など、運営理事としてその歩みを支え続けた。 群響の大友直人音楽監督は「日本中が焦土と化した年に、高崎でオーケストラ活動が始まったことは信じられないほどの驚き。これは日本の音楽史における奇跡」とその足跡を評する。 松井さんは「戦後を音楽で再出発しようという楽団の思いや市民の支え、いろんな奇跡が重なった。七十年をともに歩むことができて幸せ」と感慨を込めた。 <群馬交響楽団> 1945年11月、高崎市民オーケストラとして発足。47年にプロ化。63年に現在の名称に改称した。移動音楽教室を鑑賞した児童・生徒は2010年に延べ600万人を突破した。カルロ・ゼッキ氏と遠山信二氏を永久名誉指揮者とする。 PR情報
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