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ダンジョンのエレベーターボーイ 作者:ツングー正法
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第一話 92階層

 暗黒のダンジョンの底目がけ、エレベーターの籠は恐ろしい落下を続けた。いよいよ暗さはその深みを増し、大地の奥底でうめきを発する地獄へと到達するかと思われる寸前、エレベーターの鋼鉄の箱は減速した。
 金属がこすれ、火花が飛び交う。その甲高い音にエレベーターの籠の中の人間の腸がよじれた。籠は骨格を大きくふるわせ、完全に停止する。エレベーターの籠は疲労したかのように、鋼鉄の皮膚に空いた体腔から熱い蒸気を吹き出した。だが、エレベーターの操り手はその白いもやもやしたものに一切かまわず、腕を伸ばしてがらりとエレベーターの籠の格子扉を開けた。
 ここが街の地下にある類のただの暗がりなら、突然の闖入者に驚いて灰色のネズミが駆け回るか、あるいは天井の一角にて蝙蝠の一団が赤く目を光らすことだろう。
 だが、ここはダンジョン。
 ここにわだかまる闇は、現世に知られる全ての闇と比してなお、真の闇と呼ぶにふさわしい。
 空気は生暖かく、血の味がする。ダンジョンに住まうは黒の客。その気配はやすりのように肌に痛かった。いかなる魯鈍な生き物とて、ここを宿にはすまい。近づこうとはしまいて。
 だが、呪われているかのような好奇心を持ち合わせたただ一つの種族、人間だけは違った。
「92階層だ」
 エレベーターの操り手は、しわがれた声を出した。
 エレベーターの籠のたどり着いた広間は古く、およそ滅多に人の訪れるべき場所ではないことを示している。それゆえか、時の摩耗さえもこの階層は寄せ付けていなかった。
 油のつきぬランプが様々な場所で赤々と輝いていたが、炎の色も地上とは違う。血よりも暗い赤だ。その雰囲気は聖堂のように静かだが、それはダンジョン自らによって装われた見せかけに過ぎない。
 エレベ-ターの操り手は眼窩の影の奥、用心深い目を光らせ、広間の果ての壁を見やる。床から天井まで届く二十人長ほどの巨大な92という文字が、エレベーターの籠が正しい場所に着いたことを示している。
「ここまで冒険者が着たのは久方ぶりだ」
 エレベーターの籠の中から乗客がゆっくりと出てきた。いかにも冒険者風の二人組だ。
 一方の男は古い赤銅色の具足に、眉までを覆う円形兜。その下の顔は、古兵というほど老けてはいないが、眼はあまりにものを斬りすぎて、ひどく疲れた憂鬱な紫だった。
 左手には大盾を担ぎ、そして、右手には大業ものの姿があった。その刃は主人同様疲れた感じの曇った色だ。十人の男が十分に乗り込める広さのエレベーターの籠は、この大剣のおかげでひどく狭いものに思えていた。
 その剣士の相棒は鎖帷子の上に青の戦衣を羽織った女だった。樺色の羽飾りの着いた兜をかぶり、猫のような黄色い眼は喜びに光っている。二本の曲刀が両腰にあった。
 二人の冒険者はぶらぶらと広間に進み出た。手練特有の優雅な身のこなしで、ダンジョン制覇に備えた重武装にも関わらず不気味なほど物音は立てない。
 男はギール、女はシャルナといった。
「ここが92階層?」
「……なんか大したことのなさそうな階層だな」
 二人はそう言い、直後、ダンジョンが反発するかのようにごろごろ音をたてた。
 だが、二人はそんなことではびくともしない。
「本当にそんなに高レベルな階層なのかい?」
 シャルナはエレベーターの操り手にそう尋ねたが、びくともしていないのはこの操り手も同様だった。
「安心しろ。ここのモンスターには賢いのが揃っておる。少なくとも、前回ここに冒険者どもを運んで時には揃っておった」
「前回ってのはいつなんだい、エレベーターボーイ?」
 エレベーターボーイと呼ばれたエレベーターの操り手は骨張った力強い手で頭をがりがり掻いた。
「三年前だな。90より下の階層となると、そんなものだ。どいつもこいつもびびりおうて、およそ誰も近寄りはせぬ。俺の生きてる間に100階層に挑もうとするのが出てきてくれりゃ、エレベーターも動かしがいがあるのだがな。三年前の挑戦者の骨とか見つけて持って帰ってくれれば、企業組合ダンジョン管理部は喜ぶはずだ」
 エレベーターボーイの言葉に、シャルナは嬉しそうな笑い声を漏らした。危険なダンジョンがお好みらしい。
 世間ではダンジョンは深い階層、つまり数字の大きいものほど難易度が高いとされているが、実際には生息するモンスターどもの傾向やダンジョン内の環境、構造などによって誤差が生まれた。
「ま……帰りの荷物が少なければそうするよ」
 ギールが言って、大剣を気だるそうに肩に乗っけた。
「この階層を制覇したら、呼ぶがよい。数分で来てやる。エレベーター呼び出しボタンはあそこだ」
 エレベーターボーイは広間の一角にぽつんとたたずむ石碑を指した。
 ダンジョンの全ての階層にあれと同じものがあった。
「こんな深い階層にもちゃんとあるんだね」
「その通り。俺自身も行って見たことがあるわけではないが、ダンジョンの最下層、100階層にもこれは設置されているという。これはダンジョンにエレベーターを設置した者の偉大さを表す事柄の一つだ」
 エレベーターボーイの口調には誇らしげな響きが混じっていて、それを上手く隠せていないようだったが、女剣士はふうんと相づちを打っただけだった。冒険者にとってダンジョンのエレベーター設備は大した興味の対象ではない。
「それでは行ってくる。ああ……」
 ギールはエレベーターの籠に置かれた宝箱に目をやった。二人の冒険者がつい先ほど、準備運動代わりに55階層を制覇した際の戦利品で、階層のボスのモンスターを殺して奪ってきたものだった。長い時をダンジョンの暗黒の下で過ごしてきたはずなのに、この宝箱には劣化や腐食といったものが見当たらなかった。
「持ち歩くのもしんどい……預かっといてくれないか?」
「俺のエレベーターを貸し倉庫代わりに使うか。よかろう」
「金貨一枚ほど払おうか?」
「金が欲しくてこの仕事やってるわけではないぞ」
 冒険者二人は宝箱に関して、不必要にエレベーターボーイを疑ったり、脅したりしなかった。
 エレベーターボーイが冒険者の中で特に一流の二人に敬意を表しているのと同様、二人もエレベーターの主に敬意を表しているのだ。この男なしで冒険者がこうも地底の奥底に下りてくることなどできはしない。
 二人の冒険者はモンスター待ち受けるダンジョンの奥底へと消えていった。
 ダンジョンのもやがたちまち生命の痕跡すら隠してしまった。
 エレベーターボーイはエレベーターの籠を地上へ上げる準備にかかる。こんなダンジョンの深みでぐずぐずしているのは、危険だった。クランクを回し、操作舵を上下する。エレベーターの籠が、空気を求める肺のように震え、その中は製鉄所のように騒がしくなる。
 エレベーターの出発準備が済んだことを告げるベルが短く鳴った。
 ダンジョンの奥から剣の金属音、何かがぶつかったり、叩き付けられたりする音に混じって、人の怒鳴り声と、モンスターの鳴き声が響いてきた。
 二人の冒険者の声は切羽詰まっているように聞こえるのは気のせいか? これほど深いダンジョンの闇の中では音もねじ曲げられてしまってうまく伝わらないのかもしれない。
 誰かが魔法を使ったのか、どすんとくぐもった爆音がして、壁のランプの炎が一斉に揺れた。
 だが、それでも、モンスターはひるまないのか、それとも新手が来たのか、モンスターたちの声が大きくなる。
 爆音に対抗するかのように、放電の音が聞こえた。モンスターたちの方にも魔法を使う奴がいるのだろう。92階層なら十分に考えられることだった。
 エレベーターボーイは右手を舵棒に置き、左手で格子扉を掴んだ。
「地表に上がるとするか……」
 ダンジョンの奥は魔法と白刃ひらめく場となり、それはどのような戦場と比べてもひけをとらない、恐ろしいものだろう。だが、いつまでも続くわけではない。やがては、ダンジョンに巣食うモンスターの陣営か、武装して少人数で侵攻していく冒険者たちのどちらかに底が見えてくるはずだった。
 エレベーターボーイは耳をすませる。
 耳に親しんだ、もっと上の階層にて、初心者冒険者が階層の入り口付近で、実力以上の階層に入ってしまい、しかももう万事は手遅れだということに気付いた時にあげる、絶望の悲鳴を無意識のうちに聞き取ろうとする。
 一流の冒険者であるギールとシャルナも断末魔というのを上げるのだろうか? それとも、そんなことをしてわざわざモンスターを喜ばせはしないのか?
 だが、爆発音と金属音はまだ続いた。
 エレベーターボーイは計器類の中の、刻時器の文字盤を指で叩いた。
「五分経過。三年前の挑戦者はもう死んでいた頃だろう。あの二人なかなかやるではないか」
 二人が途中で力つきれば、また90階層以上に挑戦するほどの腕利きが現れるのを三年待たねばならないのだろうか。だとしたら、つまらない。
 92階層の、想像を絶するボスを倒して、階層を制覇するのは無理だとしても、せめて生きて脱出してくれれば、エレベーターで急行して拾い上げてやることが可能なのだ。
 だが、エレベーターボーイの期待通りに事が運ぶのは難しそうだった。
 この深みにあるダンジョンはあまりに難易度が高い。まるで人間が立ち入ることを禁じる法則でも働いているのではないか、と信じたくなるほどだ。
 ダンジョンの奥では戦いの音が高まり、誰かの雄叫びのあと、爆音が起きた。
「退避だ」
 エレベーターボーイは舵棒をがこんと倒し、地表からエレベーターの籠を吊るしている途轍もない長さのケーブルが火花を散らして巻き上げられた。
 爆風がダンジョンの回廊を吹き抜けてきて、エレベーターの籠の外壁をびりびりと震わせた。
 エレベーターボーイは熱風に顔をしかめながら、ダンジョンの奥を見やる。だが、意味あるものは何も見えない。
 いまの爆発は戦いのけりを付けたのか、戦闘の音が無くなっていた。
「ゲームオーバー……か?」
 エレベーターボーイはつぶやき、格子扉をどしんと閉めた。
 エレベーターの籠がシャフトを上昇し始めても、しばらくは92階層の照らされた広間の床が見えていた。だが、それも上昇が急上昇に変わると、オレンジ色の点へと変わり、すぐに見えなくなった。
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