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魔王と呼ばれた女 作者:マグロアッパー
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3.日々


 瞼を開くと、新鮮な空気の匂いと共に、溢れんばかりの陽光が私を包んだ。

 眩しさに視界を奪われながら、上体を起こす。見覚えのない――さっぱりとした木造部屋の一室、清潔な寝台の上に私はいた。

「あれ……ここは、どこなの?」

 現実を見失った感覚に打たれ、しばし茫然となる。

 混濁した意識に眉をひそめながら、必死に記憶の糸を手繰り寄せる。だが暗闇に通じる糸は、引っ張っても引っ張っても何も出てこない。

「えっ……?」

 瞬間、汗がじわりと、背中から染み出てくるのを感じた。記憶の連続性が途切れていた。自分が何故ここにいるのか、そもそも自分が誰かさえも分からない。

「よかった、目が覚めたんですね」
「――っ!?」

 不安に体を抱きしめていると、男の子……たぶん、十四、五歳の少年が、扉を開けて部屋に入って来た。

 栗色のクリクリとした髪の毛。女の子のような顔。落ち着いた声。
 とても優しそうな顔と雰囲気を持つ少年だった。

 でも同時に、不思議だけれど、どこか寂しそうな……。

「あ……えっと」

 彼を前に、恐怖しながらも安心するという、自分でもよく分からない心地になった。少年は私のことを知っているようで、柔和に笑んでいる。

「あ、あの……ここは、えっと、私は、いえ、あの、あ、あなたは……」

 迷った末に、私は一筋の光に縋るように口を開いた。名前も知らない少年が無害そうなことが、私の気を許したんだと思う。

 またその際、少年がしっかりとした筋肉を身に着けていることに気づいた。それが何所か不釣り合いに感じ、妙に気になってしまう。

「やっぱり……」
「え?」

 すると少年は、光を散らすように、悲しそうに笑った。


「やっぱり、記憶がないんですね」


 その言葉に、私は背筋が冷えた思いになる。

 ――や、やっぱり? やっぱりとはどういう意味だろう。

 少年が知っていることを、私は知らない。自分が置かれている状況に、烈しい恐れを抱き始めた。虚無という名の染みが、意識にべったりと張り付く。

 そんな私を、何処か慈しむような顔で眺めると、少年は寝台の傍らにあった丸椅子に座った。一度俯いて寂しそうに笑った後、顔を上げて、彼は語り始める。

「ぼくの名前は、カルルと言います。そしてあなたは――」

 それから、重苦しい驚きの連続が私に訪れた。私はそれでも出来るだけ冷静であろうと努め、少年の話に耳を傾けながら一つずつ整理していった。

 まず彼の名はカルル君といい、私の家の隣に住んでいた少年であること。私たちの住む村が、ある夜、原因不明の出火で燃えてしまったこと。

 そこで少年は御両親を亡くし、クリスと言う名前の私も、母を失ったこと。

 時を同じくして、殆ど誰も信じていなかったような魔王が復活したこと。世界が混沌に覆われてしまったこと。沢山の人間が死んだこと。

「ま、魔王……?」

 魔王の話は荒唐無稽に過ぎると思った。だが微かに、昔話の記憶はある。

 また少年の口調に宿る真摯なものや、彼が遭遇したという悲痛な話などを耳にすると、とても嘘を言っているようには思えなくなった。

 そして少年も、その優しそうな顔に似合わず、魔王討伐の旅に出たのだと言う。筋肉がついているのもそれが理由で、疑った私に体を見せてくれた。

 少年が上着を開いた時、男性の体であったことに驚き、本能的に恐怖した。抑えつけられたら、多分、抵抗出来ない。華奢な肉体が似合う顔をしているのに、野生動物のように無駄をそぎ落とした体をしていた。

 しかしうろたえる心も、切なさに胸を締め付けられる無数の物を認めると、他人事のように、どこかに消え去った。

 少年の白く美しい体には、凄惨な、無数の傷跡が見て取れた。日常生活をしていては到底付かないであろう、沢山の切り傷。

 魔王が世界に解き放った怪物と戦う中で、刻み付けられてしまったのだと言う。旅の凄絶さを物語る体から、しばらく目を逸らすことが出来なかった。

 それでも、私はどうにか口を開いて尋ねた。

「そ、それで……私は、どうしてここに? どうして記憶を?」

 彼は上着で体を隠した後、躊躇うような眼差しを覗かせた。だが沈黙には至らず、やがて言った。

 あなたは魔王に浚われたのだ、と。
 ぼくはそんなあなたを救うために、旅をしていたのだ、と。

「ぼくがあなたを……クリスさんを、魔王の城の近くで見つけた時には、気を失っていました。多分、魔王に浚われて、とても辛いことがあったんだと思います。それで一緒に旅をしていた、とても大切な仲間がいたんですが……彼が、きっとあなたは、目覚めた時には記憶を失っているだろう。そう教えてくれたんです」

 少年の言葉は、激しい奔流となって私に押し寄せた。私の認識はゆさぶられ、現実に対する印象は一度に乱れ、混乱するようになる。まるで奇妙な混沌に、自分の存在そのものを、かき乱されるかのように……。

 その中で芽生えた一つの疑問を、気づけば口にしていた。

「あ、あなたが……魔王を倒したの?」

 少年はその一言に、表情を凍り付かせる。
 それは本当に一瞬のことだった。錯覚かと見間違える程の。

 それなのに彼はその後、笑ってみせた。辛いことにはとっくに慣れてしまった、そう語りかけるように。そして言った。


「いいえ、ぼくの仲間が、ずっと一緒にいた仲間が、倒したんです」と。


 それから私は、カルルと名乗る年の離れた少年と、その地で暮らし始めた。こじんまりとした、だけど二人で住むには十分の広さがある山小屋で二人。

 彼は魔王討伐に協力した褒美に、この国の王様から、その地一帯の山を貰ったと話した。眠れる獅子の静けさを湛えた貫禄のある、とても美しい山で、湖もあり、渓流もあった。

 カルル君はそこで、身寄りのない私を引き取り、半月近く前から自給自足の暮らしをしていたらしい。

 また、山の(ふもと)の村から、お婆さんが朝と夕方毎にやってきて、眠り続けていた私の体を拭いたり、男性には憚られるような面倒を見てくれていたと聞いた。

 目覚めた日の夕方、お婆さんが訪れた際にお礼を言う。そこでカルル君がお婆さんから勇者と呼ばれ、とても敬われているのを知った。

「お姉さんが目覚めましたか。よかったですなぁ、勇者様」
「え……? 勇者?」

 戸惑って見つめる私に、彼は曖昧に笑って応える。お婆さんが帰った後に、苦笑しながら言った。

「魔王討伐に加わった人間は、そう呼ばれているんです。恥ずかしいことに」

 またカルル君は狩りや釣りがとても上手くて、畑も耕していた。旅を通じて、生きる術は身に着けたのだと言う。

「記憶が戻るまでは、ここでゆっくり暮らして下さい」

 彼は私が目覚めた日の夜、私にそう言った。また悲しそうに笑いながら。カルル君は、朗らかな笑い方を忘れてしまったように、いつも何処か儚い。

 私はその提案に迷ったが、父を病気で、母を火事で亡くし、身寄りのない存在になったと教えられていた。妹と弟がいたそうだが、今は別の遠いところで暮らしているとも。

 結局、カルル君の厚意に甘え、記憶が戻るまで共に暮らすことにした。

 物憂げな午睡のように、静かな日々だった。カルル君は朝食を食べると食料を確保するために出かけ、私も畑仕事を手伝った。時には近くの湖や川に出かけ、彼が釣りをするのを眺める。

 麗らかな真昼の、はにかんだような陽光。
 梢が落とす、肌触りの良い影。

 私の情動も、カルル君の情動も、動くものは何一つとしてなく、時折……彼の淡い私への想いが伝わってくるような、そんな日々だった。

 記憶を失う前にも、きっと、こんなにも落ち着いた日々はなかっただろうと思えた。私は質素な生活に慣れ、カルル君もまた、その暮らしを慈しんでいた。

 そんな暮らしが半年ほど続いた。

 不思議と退屈はしていなかった。記憶は戻らなかったが、山が見せる様々な変化や、少年との時間が私をゆっくりと癒した。

「おはようございます、クリスさん」
「おはよう、カルル君」

 深呼吸をする。私の失われた物にも、その清々しいものが触れる思いだ。報われぬ世界の最果て。時を忘れたように、私は深く息を吐いた。

 日々の中で、カルル君の仲間だった人達が、小屋に訪れた時もあった。

 男性と女性の二人連れ。彼のお兄さんとお姉さんのように、年の離れた二人。どこかで会ったような気もするが、思い出せない。

 挨拶をすると、彼らはとても複雑そうな顔をした。特に女性は、それが顕著だった。カルル君と私が二人で暮らしているのが、不健全だと思ったのだろうか。

 だが彼が私に手を伸ばしてくることもなければ、私が彼に手を伸ばすこともなかった。込み入った事情の中で、私たちは単純な日常をおくった。

 その日の夜、私は彼らに遠慮して一人、自室で夕飯を食べた。その後、寝台に横になってウトウトしていたら、女性の泣き声が小屋の外から聞こえてきた。

「それでも……私は、カルルのことが! カルルのことが!」
「ありがとうございます……でも、ごめんなさい。ぼくは――」

 その先に続く、カルル君の言葉を聞いてしまう。

 思考に空白が生まれると共に、心臓が強く鼓動しているのを感じた。そうであろう事実を推測するのと、実際にそうだと証明されるのは、また違う。

 そうか……と思った。
 やっぱりそうだったんだ、と思った。

 女性のすすり泣きの声を聞きながら、翻って考えた。
 では私はどう思っているんだろう、と。

 一晩中考えても、はっきりと答えは出なかった。
 たぶん、きっと、いや……その先を言葉にするのは止そう。

 翌日、二人は朝食を取ると寡黙に身支度を済ませ、振り返らずに、山を下りて行った。カルル君だけが、いつまでもいつまでも、二人を見送っていた。

 彼は……泣いていた。
 顔を見た訳ではないが、纏う空気が、さようならと彼らに告げ、泣いていた。

 私はそんなカルル君を、後ろから黙って見つめていた。
 情があるのは辛く悲しいことなのかもしれない、そう感じながら。

「ねぇ、カルル君」

 そして彼に呼びかける。

 カルル君は少年らしい仕草で、手の甲で顔をごしごしと拭った後、微笑を口元に湛えながら振り向いた。

「どうしました? クリスさん」

 私は彼の顔を前にすると、胸が塞がり、何も言えなくなってしまった。
 なんでもないわ、と応えると、そうですか、とカルル君は静かに笑った。



 # # # #



 静かな日々に終わりが来たのは、そこで暮らし始めて一年近くが経つ頃だった。

 ある夜から急に、私は悪夢にうなされるようになった。夢の中で私は絶対的な力を持っており、思うが儘に振るまっていた。

 自分の母親だと思う人を、私が小刀で刺す。

 夢特有の直感――母親だと思える人は、生温かい血に濡れた死体となる。よく知らない、汚らしく太った男にも私は同じことをしていた。

 そして最後には……自分の住む村に火をつけて喜んでいた。自分のものとは思えない、とても醜悪な笑い声を上げて。夢見るように笑いながら。

「クリスさん……どうかしましたか?」

 朝、浮かない顔で起きてくる私を気遣い、カルル君が声をかけてくる。
 相手にも愛想笑いと分かる顔で応じる私。

「いえ、何でもないのよ。ちょっと嫌な夢をみてしまって」
「そう……ですか」

 しかしその夢は、眠る度に少しずつ形を変えて現れ続けた。時には私が何か別の存在となり、炎を操り、見たこともない町を燃やしていることさえあった。

 荒唐無稽な夢だ。その筈だ……だがそう断じ切れない恐ろしさがある。

 不思議と、呵責の念を覚え始めている自分がいた。恐れる。或いは、霧の中で山の頂を見つけたように、隠された真実を覗いてしまったのではないかと。

 寝台に横たわり、欠落した記憶を探し当てようとする時間が増える。

 魔王に浚われた、私という存在。一体そこで私は、何を見たのだろう、何を感じたのだろう。私の身に……何が起こったのだろう……。

 カルル君はそんな日々の中で、一度は心配そうな顔で私を見た。

 でも、その心配している顔で人を見ることが、実はその人に何の解決も与えないばかりか、不快な印象しか与えないことをよく知っていた。

 だから努めて何でもない風に、淡々と自分の日常を送ってくれた。
 それが私には有難かった。遠く離れて傍にいる。憔悴した顔で少し、笑った。

「よかったらこれ、久しぶりに飲みたくて。今日、山を下りて貰って来たんです」

 ある夜などは、彼は私の部屋の扉を遠慮がちに叩き、温めた動物の乳を木の器に容れ、持ってきてくれた。

「…………ありがとう、カルル君」
「いえ、夕食に出し忘れてしまったので」

 カルル君が退出した後、湯気を発するそれに口を着けた。

 すると幼かった頃、体調を崩した時に同じようなことをしてくれた人がいたことを、不意に思い出した。懐かしい美味しさだった。

『大丈夫か、クリス? さぁ、これを飲んでお休み』
『お……さん、ありがとう』

 あれは誰だったろう。
 記憶がなくても、何故か記憶の感触だけで、しみじみと心が温かくなる。

『ははっ、早く良くなれよ。クリス』


 しみじみと、悲しくなる。



 # # # #



 時は巡り、片時も止まらない。等しく、全ての人間に降り注ぎ続ける。
 情けなくも無情に、私の記憶を取り戻す日が訪れてしまう。

 その日は朝から天気がよかった。午前中は川で洗濯をし、午後からは二人で近くの湖に足を伸ばした。豊かな水は透き通り、陽光を跳ねて(まばゆ)く、照り輝いていた。

 カルル君はいつものように釣りを始める。私もいつものように、少し離れた位置に腰を落ち着け、その様子を黙って眺めていた。

 会話は無くても、息詰まりを覚えることはない。何も不足していない、穏やかな時間。人の世の苦しみから離れた、静かな時間。

 そんな時間も早足で過ぎ去り、気づくと空が黄昏色を作り始めていた。そして――カルル君が釣り上げた魚を籠に入れ、再度、釣り針を遠くに放り投げた時だ。

「え……?」

 蛇のように不気味な音を立てて忍び寄るものが、意識の中に突然現れた。それは私の認識に、大口を開けて噛みつく。

「――っ!?」

 噛みつかれた衝撃に、私は驚いて目を見開いた。何かが目覚める感触。次いで、忘却の彼方にあった忘れていた日々が、閃光のように去来する。

「な、何? わ、私……?」

 今の私の認識と、魔王の、クリスの認識がうねり、音もなく統合を始める。全てが途端に儚くなって、既知と未知が混ざり合い、ぐらぐらと視界が揺れ……。

 私は暫くの間、そうして自身を喪失したように、目を大きく開いたまま、黙ってその場に佇んでいた。しかし認識が定まると、力なく、ゆっくりと立ち上がる。

 その動きを察したカルルが、振り向く。


「どういう……つもりだ? 何故、私が、お前と共に……」


 認識の中で優位を占めていたのは、魔王のそれだった。

 私の言葉で全てを悟ったであろうカルル。しかし表情をピクリとも動かさず、釣り針を手元に戻し、足元に竿を置いた。

「クリスさん……」

 淡い光のように切なく笑いながら、歩み寄って来る。

「くっ!?」

 その笑顔を認めると、カルルに持つ分裂した印象が蠢き、気分が悪くなった。
 頭を片手で抑えつけ、苦悶の表情を浮かべながら、奴に再度尋ねる。

「どういうつもりだと……聞いている!?」

 カルルは私の質問には答えず、言った。

「よかった」と。
「ぼくの知ってるクリスさんが、戻ってきた」と。

 憤怒を口から煙のように吐き出しながら、私は叫んだ。

「よ、”よかった”だと!? ”ぼくの知ってるクリスさん”だと!? お前が、お前が私の何を知っている!?」

 記憶と認識は戻れど、自分に魔王の力が残されていないことに、私は気付いていた。だが抜け抜けとそんなことを言う奴を、引き裂いてやりたい衝動に襲われる。

 対してカルルは、泰然自若として、薄く笑んでさえいた。目に憂愁を囲いながら、口を開く。

「えぇ、ぼくは……クリスさんのことを何も知りませんでした。知ろうともしませんでした。一方的に、自分の幻想を、あなたに押し付けていました」

 その言葉を前に、私は絶句した。
 かつて私が思っていたことを、奴が口にしたからだ。

「勿論、今だって、あなたのことを知り尽くしている訳ではありません。でも少なくとも、幻想で目を曇らせたりはしていません」

 強さと弱さが共存しているような、脆そうだが、確固とした口調だった。
 私は何故か狼狽してしまい、カルルの言葉を一蹴出来なかった。

 一呼吸置いた後にカルルは続ける。遠くを見るように目を細めながら。

「あなたがきっと、既に女であるように……ぼくもまた、勇者の日々で男になりました。色んなことがあったんです。だからもう、あなたに幻想を見ている訳では……無いんです」

 それから奴は語った。

 困惑と悲哀、奇妙な自責を抱いて、旅に出たことを。やがて魔王の対となる力に認められ、怪物たちを倒しながら、私の元へ向かってきたことを。

 ――その日々の中、ある町で、私そっくりな女性に出会ったことを。

「驚きました。本当に、そっくりでしたから」
「お、お前は……さっきから何を!?」

 カルルはその女に良いところを見せたくて、町を荒らす怪物を倒すと名乗りを上げる。しかし舞い上がっていた為に失敗し、仲間に傷を負わせてしまう。

 周りの迷惑を考えず、弱さに甘え、自分勝手に落ち込むカルル。その時、私そっくりの女が奴を慰めたと言う。

「気味の悪いことを、よくもぬけぬけと! 幻想と遊んでばかりの子供が!」

 私が声を荒げるも、カルルは淡々と言葉を紡ぎ続ける。

「子供ですよ、ぼくは。でもその際、クリスさんのことを話したんです。そして言われたんです。きっとクリスさんは……」

 カルルの口が、ゆっくりと開く。


「寂しかったんだろうって」


 眩暈がする程の激しい怒りを覚えた私は、カルルの服の胸元を掴んだ。力任せに引き寄せると、自分より身長の低い奴を睨みつけ、噛みつくように言う。

「寂しいだと? 長話をぐだぐだと始めたと思えば、言うにこと欠いて寂しいだと!? ふざけるな!」

 するとカルルは目じりを和らげ、老成した面持ちを綻ばせた。

「それが、本当のクリスさんの一端なんですよね」
「……っ!?」

「でも誰も、そんなクリスさんを知らなかった。頑張って家を助ける、奇麗で優しい、村のお姉さん。クリスさんも、そんな自分を演じていたんですよね」

 私はカルルの問いかけに、何も答えられなかった。
 瞠目し、自分が誰なのかを一瞬見失いそうになりながら、手を離す。 

 奴は自分のつま先を眺めるように顔を下げた後、面を上げて続けた。

「でもその代わり、きっと、あなたは孤独を囲ってしまったんです。ぼくはあの村にいる時、そんなことにも気付かなかった。血と肉と情念を持った一人の人間として認めるのではなく、自分の幻想を……あなたにぶつけていたから」

 胸を鋭いもので貫かれたような衝撃と共に、動揺を覚えた。自身ですら判然としない様々な疑問が、頭の中で渦を捲く。

『きっとクリスさんは……寂しかったんだろうって』

 そうだったのだろうかと自問し、言葉にならない物を引連れて襲いかかって来るような夕焼けを、仰ぎ見た。

 私があの村で苛立ちを募らせていたのは、誰も私を見抜けなかったから?
 父が死に、私はその後、どんどんどんどん一人になっていった。

「そ、そんなこと!」

 働き手を失った惨めな村娘よりも、私は、健気に明るく振舞う村娘であろうとした。同情されるのは嫌だったし、それで、随分と得をすることもあった。

 だが結果として、それが私を更に孤独にさせた。

 ――私を見抜いてください。

「わ、わたしは……」

 少年の輪郭を持ったカルルという存在に、別の何かが入っていることに私は恐れた。そんな私に、自嘲するように奴は続ける。

「覚えていますか、クリスさん? あなたは魔王になっていた時に、こう言ったんです。”お前が私と一緒に逃げてくれたら、こんなことにはならなかった”と、”カルルが村を燃やしてくれれば、こんなことにはならなかった”と」

 そしてやっぱり、寂しそうに笑うんだ。

「本当に……その通りでした。ぼくが強ければ、覚悟があれば……クリスさんは、からかって言ったのかもしれません。でも、ぼくは知っています。人間が本当のことを言うのは、乱暴な気持ちに駆られた時だってことを。だからきっと、あの時、ぼくがクリスさんの手を取って、村から逃げていたら……」

「や、やめろ! やめろぉぉ!! わ、私は! 私は!」

 私は徐々に、自分に対する纏まりを失いかけていた。

「そんな話をして……どうするつもりだ?」

 気付けば、そんな女々しい言葉が口から突いて出る。
 カルルは全ての生き物を慈しむような瞳で、私を見ていた。

「あなたそっくりのお姉さんは、ぼくを庇って死にました。怪物を倒し切ったと思い、浮かれていたぼくを庇って……本当に、色んなことがありました」

 その目が、私の心を酷くざわつかせるとも知らないで。

「色んな経験をして、沢山の物を失って――」
「私は、そんな話が聞きたい訳じゃない! そもそも、どうして私はここにいるんだと聞いているんだ! どういうつもりで、お前は!」

 するとカルルは、透明な表情で答えた。

「クリスさんに、生きて欲しかったからです」
「な……!?」

「あなたは魔王となって沢山の人を殺しました。実の母親も、あの男も……」

 そして次の瞬間、思いもよらぬことを言った。
 私の拠り所を、足場を崩すような、意味の伴わない言葉を。


「でもそれは、あなたの責任じゃないんです」


 私はゆっくりと目を見開く。呆れ返り、馬鹿なことを言うなと、殺戮も破壊も心から楽しんでやっていたと、何故か言い返すことが出来なかった。

 それはカルルの口元に、辛辣な真実を覗いた者のみが持つ、荒涼たる笑みが刻まれていた為かもしれなかった。

「勇者の力は……魔王の力が目覚めてから、しばらくすると目覚めるようになっていたそうです。そういう()()()になっていたんです。勇者の力は意志を持っていました。そしてぼくに、色んなことを教えてくれたんです」

 そこでカルルは、三度語った。

 魔王の破壊の力と、それを留めようとする勇者の力は、世界が定めた一つの現象に過ぎないと。それは千年に満たない周期を経て繰り返し行われる、” 神 ”という存在が定めた、破壊と創造の営みに他ならないと。

 重苦しい驚きの念にかられた私は、言葉を失う。

「そ、そんな話を、私が信じるとでも!?」

 動揺のままに叫ぶと、カルルは静かに、えぇ、と言った。

「実際に、勇者の力が目覚めて間もない頃、クリスさんはぼくを殺そうと思えば、殺せたはずです。でも何らかの力が介入して、それが出来なかった」

 言われて思い到る。

『さよなら、カルル……っ!? くっ、な、何だ!? ぐあぁあ!』

 私はあの時、カルルを殺そうとして火球を発生させた。しかし正体不明の痛みに阻まれてしまい、それが叶わなかった。

 そのことに気付くと、冷や水を浴びせられたように冷静になってしまった。
 心の内を覗き込むような眼で私を見ながら、カルルが続ける。

「魔王の力は、勇者の力にやがて打たれるべきものだったんです。魔王の力が世界から消えると、勇者の力も姿を消しました。破壊されたものを人間が再生し、発展させ、やがて飽和して倦む前に……また神が破壊させる。来るべき次の破壊と再生に備えて、眠りに就いたんです。勇者の力は、ぼくにそう教えてくれました」

 瞬間、混乱した様々な心象が、意識の中で絡み合った。認識が事実を拒み、乾いた笑い声が壊れ物として出てくる。

「わ、私は……私は、魔王で、クリスで、わ、私は……」

「あなたはただ単に、魔王の力に体ごと浚われただけなんです。あなたが魔王にならなくても、誰か別の、他の人間が魔王となっていた。そして魔王の力に(そそのか)されるままに、破壊と殺戮を行った。それだけは間違いありません。そして……」

 そんな私に、カルルは更なる真実を告げた。

 一度躊躇うように、地面に視線を落として。
 拳を握り込み、やがて決然と面を上げながら――。


「ぼくが、あなたを魔王にしてしまったんです」と。


 空では雲が徐々に藍色に染まり始め、夕焼けの色と混じり合い、幻想的な模様を浮かべていた。衝撃に頭の髄を痺れさせた私は、瞬きすら出来ずにいた。

「どういう……どういうこと?」

 絞り出すようにして、そう尋ねる。
 カルルは真実から目を逸らさない意志を感じさせる瞳で、私を見ながら言う。

「首飾り……ぼくが祠で見つけて、あなたに贈ったものです。思い出せますか?」

 意識に、あの夜にカルルから渡された、不思議な色をした鉱石が蘇る。

「あれは来るべき破壊の時期になると、世界各地に現れるそうです。石は持主に対して、誰もが持っている負の感情を煽り、魔王候補として、あの祠の地下に導く役割を果たす。破壊の時期が二十年、三十年違おうとも、大きな時間の中では大差ないそうです。勇者の力にも、似たような石がありました」

 世界に蓋を落とされたように、突如として視界が暗くなる。心の奥底は、夜の海のように黒々と静まりかえっていた。波打ちすらせず、鈍く深く、重く。

 そこで私は、私の記憶や印象、思考に整理をつける努力を強いられた。

 整理したいことで頭が一杯だった。何もかもが未整理で、私の理解はあたり一面に、ぼろ切れのように散らばっている。

 言われてみると、首飾りを渡されてから、とても暴力的になった気がする。

『それで……カルル君はどうしたいの? 私が好きで、それでどうしたいの?』

 カルルを……いや、カルル君を言葉で痛めつけてから、なぜか、村と母が存在しなければ、自分は自由になれる気がした。

『村があるから……村から出られないんだ』
『母親がいるから……母親から逃げられないんだ』

 一際高い心臓が脈動する音を、身の内に聞く。
 そこで私は……何かに囁かれた。


 ――●▼×#■$%? ■◆%#●$&”▲#?


「あ……わ、私……」


 ――お前×壊■$か? ■前を#●出し”▲を?

「い……いや……!」



 ――お前は壊せるか? お前を生み出したものを?



「あ……あぁ、あぁ……わ、たし……」

 硝子に打ちつけられて這う雨のように、瞳から涙が零れた。熱く、震える感慨。忘れていたような、懐かしい涙だった。

 私はその問いに、壊せるものなら壊したい。そう答えていた。

『壊せるものなら……壊したいわよ! この手で!』

 気付くと上空にいて、破壊衝動のままに村を焼き、男を消し墨にし、

『燃えて、しまぇぇぇえぇぇ! お前が! お前が! お前がぁぁ!』

 母を……火柱に……。


「い、いやぁぁぁぁあぁあぁあぁぁぁあぁぁぁあ!」


 認識が悲鳴を上げ、体がガタガタと震え出した。

 私はそこで、村娘のクリスに戻ってしまった。残滓として残っていた魔王の認識は、霞のようにぼやけて姿を消す。それなのに……記憶だけは残り続けている。

 突然、魔王の頃に行った殺戮と破壊の記憶が、次々と” 私 ”という認識の中を走り抜けた。おぞましい、人間には耐えられないような、無残な記憶。

 魔王の認識があればこそ、無感動に受け入れることが出来ていた。しかし、人間の私では、到底……。

「あ、ああぁあ、あぁあぁあぁぁあぁあ!」

 認識が軋み、みちみちと嫌な音を立てた。

 箱の大きさに見合わない物を入れると、当然のように、その箱は壊れてしまう。それなのに暴力的な力が私を抑えつけ、執拗に押し込もうとして来る。

「や、やめて、いや! いやぁぁぁぁぁ!」

 うず高く積まれ形骸が、うすら寒い廃墟のように、脳裏に終わった姿を晒している。見たくないのに、黒い塊の中の幾多の目が、ぎょろりと私を見据え……。

「うっ――うぅううぅぅぅぅぅぅうぅぅ」

 胃がひくひくと痙攣し、思わず口元を手で押さえた。酸味が口の中に広がり、涙が溢れる。カルル君は視界の隅で、自責の念に苛まれてか、顔を下げていた。

 私はその場からよろよろと力無く歩き、木立の中で口の中の物を吐き出した。胃液にまみれたものが次々と迫り上がり、終わることのない嘔吐を催す。

 魔王の頃の記憶は……何一つとして、意識の中から出ていかないと言うのに。

 吐き切ってしまうと、自分の吐いている荒い息が聞こえてきた。おぞましい記憶も一時的に息を潜め、意識には漠々とした、白いものだけが広がっている。

「お水、飲んで下さい」

 その声に振り向く。水の入った袋を掲げたカルル君が、少し距離を置いて立っていた。私は口元を手で拭うと立ち上がり、彼を横手に通り過ぎて湖に向かった。

 そこの水で手をゆすぎ、口の周りを奇麗にする。
 草を踏む柔らかな足音がして、水面に黄昏色の少年が映る。

 私はどんな自分で彼と対面すればいいか分からず、しゃかんだ態勢のまま、子供のように黙りこんだ。風が吹き、無言がその場に横たわる。

 自分自身に対し、どうしても纏まりをつけることが出来ないでいた。

 それは、カルル君に対する名状し難い怒りなのか、運命に対する諦めにも似た悲哀なのか、” 神 ”という存在に対する、どうしようもない憤りなのか。

 或いは、記憶を無くした私が彼に覚え始めていた、淡い……。

 そういったものが混然一体となり、一つの容器に混ざっていた。人間という容れ物に、こんなにも沢山の物が詰まるのかと、困惑する思いだ。

 やがて静かな声が、私に降って来た。

「クリスさん……」

 私を魔王という存在に導いた彼が、負い目や憐憫、そういった物を含まない口調で語りかける。まるで自分のやったことには責任を持つ、大人のように。

「小屋に帰りましょう」

 私は黙って立ち上がると、カルル君と対面した。
 彼は口を開きかけたが、必要ないと判断しのか、口元を引き絞り、口を噤んだ。


 そうして私たちは、揃って小屋に帰った。

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