宮城のニュース
  • 記事を印刷

<戦後70年>父の死、真相知らず40年超

七ケ宿町出身の戦没者を祭る「忠魂碑」に、松郎さんの名も刻まれている。「父は中国にも出征していたので、おっかないおじさんというくらいの記憶しかない」と松村さん

◎元七ヶ宿町長/松村行衛さん(77)

 太平洋戦争中の1944年3月、千島列島のウルップ島(得撫島)に向かい、北海道・厚岸沖で米潜水艦に撃沈された陸軍輸送船「日連丸」。宮城、福島、新潟3県を中心に編成された将兵2000人以上が戦死した事件は軍事機密として伏せられ、今なお知らない遺族が多い。遺族で「40年以上、父の死の真相が分からなかった」という元七ケ宿町長の松村行衛さん(77)は、戦中の情報統制に翻弄(ほんろう)された半生から、平和と開かれた社会を願う。
 父松郎さんが32歳で戦死したとき、松村さんは6歳。遺骨を引き取りに仙台に行ったが、箱に入っていたのは砂袋一つ。最期の状況は「北方方面作戦輸送中戦死」という一文で片付けられた。
 開戦以来、日本近海で甚大な撃沈被害は初めて。制海権が失われた事件の公表は国民への影響が大きいとして、当時、最高刑が死刑の「軍機保護法」で厳重に秘匿された。実際、うわさした関係者が逮捕され、刑務所に送られたという。
 戦後間もなく同法は廃止されたが、人々の口は固く閉ざされたまま。「おやじは体が丈夫だから、(終戦後もフィリピンに約30年とどまった)小野田(寛郎)さんのように、北方で生きている」。松村さんは一筋の願いを持ち続けていた。
 事件から44年たった1988年。転機が訪れた。
 北海道厚岸町で、日連丸の慰霊碑が除幕されるとの河北新報の記事が目に入った。「昭和19年3月16日」の日付に「待てよ」とピンと来た。位牌(いはい)を確認すると、刻まれた命日は同じ。遺族会に連絡し、慰霊祭に参加した。
 「松郎さん」。厚岸の浜辺で花束を手向けていると突然、呼び掛けられた。声の主は、生き残った父の上官。松村さんの顔に面影を見たという。驚きとともに、父の死も受け入れた。
 日連丸事件から70年の昨年、罰則が付いた特定秘密保護法が施行された。
 「平和なら秘密は少ないかもしれないが、ひとたび戦争となれば、特高(警察)が監視して黙らせるような社会になりかねない」。松村さんは警鐘を鳴らす。
 そして戦後70年の夏。参院で安全保障関連法案の審議が進む。
 「法案はまさに憲法9条違反。何としても9条を残さないといけない」。県内の市町村長経験者でつくる「憲法九条を守る首長の会」の一員として、日連丸事件の遺族として、発言と行動を続けるつもりだ。


関連ページ: 宮城 社会

2015年08月23日日曜日

  • 記事を印刷

先頭に戻る