7ハートネットTV シリーズ 戦後70年 ある知的障害者たちの戦中戦後記 第2回 2015.08.20


ゲームをしながら体を動かしたり物理の基本を感じる事もでき遊び方もいろいろあります。
子どもの月齢に合わせて親子で楽しく盛り上がって下さいね。
太平洋戦争末期日本軍によって伊豆大島の施設を追われた知的障害者たちがいました。
行き場のなかった30人が疎開した先は山梨県清里。
開拓が始まって数年しかたっていない寒村でした。
移り住んで間もなく厳しい寒さと食糧難に見舞われ子どもたちは衰弱。
一人また一人と消え入るように息絶え1年余りの間に10人が亡くなりました。
終戦後施設は1年2か月ぶりに伊豆大島に戻ります。
疎開生活を生き延びた知的障害者20人のうち14人が再びこの施設に入りました。
その一人ニュースさんという愛称で呼ばれた男性です。
23歳で疎開先から戻り81歳で亡くなるまで伊豆大島の施設で過ごしました。
島ではちょっとした有名人だったといいます。
町に一緒に出かけた時なんかは…ニュースさんの施設では創設者の考えのもと戦前から子どもたちに教育を行っていました。
知的障害児への教育がまだ義務化されていなかった時代こうした取り組みは珍しいものでした。
「人々から忘れられている精神薄弱児」。
戦後障害者の福祉や教育を保障する制度が徐々に作られていきました。
しかし知的障害がある人たちへの支援は後れ制度から取り残されてきました。
その教育が義務化された時にはニュースさんは既に50歳を越えていました。
恐らく…戦時下の疎開生活を生き延びニュースさんはその後施設で一生を終えました。
知的障害のある人たちが歩んだ戦後を見つめます。
東京から南へ120キロの伊豆大島。
島に100年近く前からある…現在18歳以上の知的障害者およそ80人が暮らしています。
その中で最も入園歴が長い人は50年近くになります。
かつてそれよりもはるかに長くここで暮らした入園者がいました。
施設では専らニュースさんと呼ばれていました。
東京で生まれ育ったニュースさんは昭和12年14歳の時に藤倉学園に入園しました。
以後太平洋戦争末期の疎開生活を挟んで施設での生活は合わせて66年に及びました。
ニュースさんはいつも好奇心が旺盛で新しい情報を集める事が得意だったといいます。
ニュースさんが50歳を過ぎた頃から生活を支援してきた職員の橋本進さんです。
ニュースさんは食事など生活の至る所に興味を持ち精通していたといいます。
旅行に一緒に行ったりする時なんかは…いつもニュースを調べてはみんなに教えて回ったニュースさん。
施設の職員や入園者だけでなく島の住民からも慕われました。
その戦後はどのようなものだったのでしょうか。
終戦の時ニュースさんは山梨県清里にいました。
施設の入園者30人と職員たちとでここに疎開していたのです。
寒さと食糧難で入園者は衰弱し一人また一人と息絶え10人が亡くなりました。
終戦から2か月後施設は清里から伊豆大島に戻ります。
疎開生活を生き延びた入園者20人のうち親元に戻った人などを除く14人が再び島の土を踏みました。
当時23歳だったニュースさんもその一人でした。
大島へ帰った時みんな喜んでね。
作ったらしいんですよ自分たちでね。
大島へ帰るって言ったらもうすんごく喜んで。
1年2か月ぶりに島に戻ったニュースさんたち。
日本軍の施設として使われた学園はすっかり荒れ果てていました。
藤倉学園の理事長で当時学園の実務を担っていた川田仁子さんはその時の入園者たちの様子を覚えています。
川田さんたちはまず施設の建物を修復する作業に取りかかります。
ニュースさんたち入園者も作業を手伝いました。
少しずつ学園の元の姿がよみがえっていきます。
入園者たちの施設での生活が再び始まりました。
「親兄弟を失った寄る辺なき孤児たち」。
一方そのころ全国の主要都市には親や身寄りを失った戦争孤児があふれていました。
その数は12万人を超えたといわれています。
そこで国は昭和22年児童福祉法を制定し各地の養護施設で戦争孤児を保護する事に乗り出します。
しかしそうした施設だけではとても足りない状態でした。
窮余の策として国は当時全国にあった…国からの支援もあって伊豆大島の藤倉学園では戦争孤児を受け入れる事にしました。
中でも孤児に含まれていた知的障害の子どもたちが数多くやって来ました。
その結果戦後5年の間に入園者の数は7倍に急増。
ほかの施設も同様の事態となりました。
国が関連予算をつぎ込んだ結果でした。
当時戦後間もなくの苦しい財政事情を抱えていた中国はなぜこの福祉政策を強く推し進めたのでしょうか。
知的障害児への対応に迫られた東京都は藤倉学園に児童向けの専門施設となる事を要請。
学園はやむなくそれに応じて受け入れ対象を18歳未満に限定する事となりました。
その時29歳だったニュースさんは施設を出なければならなくなりました。
そこで東京の家族が施設の近くに建てた仮住まいに移ります。
施設から支援スタッフを派遣してもらう契約を結びなんとか入園者としての扱いは継続されました。
昭和30年代になると知的障害者の子どもへの支援が広がり施設も増えていきました。
一方で18歳以上を対象にした専門施設はつくられず成人の知的障害者への支援はないままでした。
みんな取っていいの?うん。
切った!切った?トマト!児童福祉法が制定されてからも全国の知的障害児施設には18歳以上の人がまだ残っていました。
個別に高い利用料を払ってでもそこにとどまらないと行き先がなかったからです。
また子どもの入所者も年を重ねていずれ支援の対象から外されてしまいます。
そこで知的障害者施設の責任者たちが動き出します。
力を合わせて国に問題を訴えようと会を立ち上げました。
その中心にいたのは…川田たちは知的障害者への福祉政策の年齢制限をなくすべきだと国に要望書を提出します。
その理由として知的障害者は年齢によって解決できないものであると掲げ成人の知的障害者にも児童福祉法に準ずる措置を保障するよう訴えたのです。
それでもすぐに年齢制限が取り払われる事はありませんでした。
ニュースさんのような成人の知的障害者への福祉保障はなされないまま時が過ぎます。
事態が動き始めたのは昭和30年代に入ってからの事でした。
日本経済は戦後未曽有の好景気に沸き福祉関連の国家予算も急増。
国はさまざまな福祉制度の拡充に乗り出します。
昭和35年3月精神薄弱者福祉法現在の知的障害者福祉法が制定されました。
ようやく成人の知的障害者も福祉制度の対象になったのです。
これを受け藤倉学園は大島で成人が入れる施設も開きます。
ニュースさんはようやく近くの仮住まいから施設での生活に戻れる事になりました。
知的障害者福祉法の制定に奔走した川田貞治郎はその制定の前の年に病死していました。
川田が生前向き合い続けたもう一つの大きな課題はなお残されたままでした。
その課題について語った録音テープが藤倉学園に保存されていました。
昭和26年のラジオ番組に出演した時の内容です。
川田が向き合い続けた大きな課題。
それは知的障害児の教育でした。
川田にはこんなエピソードがあります。
昭和20年代半ば行政の担当官が藤倉学園を視察に訪れました。
入園者の様子を見て川田に言います。
満足そうに喜ぶその発言に対して川田はどなりました。
国の児童福祉は評価しつつも教育に関心を払わない事に憤りを覚えての事でした。
川田の長女で当時学園の実務に携わっていた仁子さんはその時のやり取りを目の当たりにしていました。
よ〜い前へならえ。
これは昭和36年に製作された藤倉学園の記録映画です。
学園では戦前から子どもたち一人一人に応じた教育を行っていました。
(一同)あ〜。
(一同)1つ2つ3つ4つ。
知的障害児も適切な教育で人生を豊かにできる。
その信念のもと川田は学校教育を受けられない分を支援しようとしたのです。
1つ2つ3つ。
1つ2つ3つ…。
川田たちの訴えや取り組みにもかかわらず知的障害児への学校教育の保障はなかなかめどが立ちませんでした。
難航したのはなぜか。
障害児教育の歴史を研究している高野聡子さんは特有の事情があったと指摘します。
「人々から忘れられている精神薄弱児」。
一方知的障害児の親の側からも学校教育の保障を求める運動が各地で起こり始めます。
昭和36年に結成された親の会東京都精神薄弱者育成会。
知的障害児全てに学校教育を保障する全員就学を訴えました。
運動の大きな原動力になったのは我が子が学齢期に達した時の母親たちの衝撃でした。
知的障害児の全員就学を求める親たちの訴えは施設関係者や教職員たちと共鳴し大きな運動に発展していきました。
昭和48年には東京都に請願書を提出し全員就学の実現を図ります。
翌年東京都は全国に先駆けてそれを保障しました。
そして国も踏み出しました。
昭和54年障害がある全ての子どもの学校教育が義務化される事になったのです。
子どもたちを乗せた通学バス。
やって来たのは東京・八王子市にある特別支援学校です。
障害がある全ての子どもへの教育が義務化されて36年がたちました。
この学校では小学生から高校生まで知的に障害がある430人が学んでいます。
こちらは小学1年生のクラス。
朝のお勉強を…。
始めます。
礼!
(一同)お願いします。
1クラス6人の児童に対し複数の教員が指導に当たります。
小学部中学部では国語算数音楽体育などのほか日常生活に必要な事を学んでいます。
そして高等部。
障害児の教育が義務化された当初に比べ高等部の教育内容は拡大してきました。
いくつもの実習が盛り込まれ生徒たちが社会に出て働くための力を高めています。
障害のある人もない人も同じように自分の選んだ生活を送れるよう保障する人権条約です。
日本ではおととしその条約が批准されました。
それにより障害のある子どもとない子どもが一緒に学ぶ試みが広がっています。
ここに空気がこれだけあるからこの分だけは…。
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魚泳いでるよ。
好奇心たっぷりで学ぶ事が大好きだったニュースさん。
知的障害児の教育が保障された時57歳でした。
施設の向かいにある高校に入って廊下を歩いたり教室をのぞいたりしていた事が何度かあったといいます。
施設でニュースさんの生活を支援していた橋本さんです。
ニュースさんについてふと考える事があるといいます。
Dialogue:0,0:27:2015/08/20(木) 20:00〜20:30
NHKEテレ1大阪
ハートネットTV シリーズ 戦後70年 ある知的障害者たちの戦中戦後記 第2回[字]

終戦で疎開先の山村から伊豆大島の施設に戻った知的障害者たち。その中に「ニュースさん」という男性がいた。その戦後を、障害者をめぐる保障制度の変遷とともにたどる。

詳細情報
番組内容
疎開先で知的障害者10人の仲間を失った施設は、戦後、伊豆大島での運営を再開した。間もなく、知的障害者施設に対する国の支援制度が始まる。しかし、対象は18歳未満に限定されたため、成人になっていたニュースさんは対象とはならなかった。また、知的障害者には教育の保障もなかった。81歳で亡くなるまで施設で過ごしたニュースさん。その人生に、戦後の支援制度は何をもたらしたのか。関係者の証言などから検証する。
出演者
【語り】河野多紀

ジャンル :
福祉 – 障害者
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行

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音声 : 2/0モード(ステレオ)
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