群馬県議会議員 中村紀雄
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今見るシベリア強制抑留の真実

第2回 ハバロフスク事件

日本人が最後に意地を見せたハバロフスク事件の真実

シベリア強制抑留の真実を語る上で、ハバロフスク事件に触れないわけにはいかない。それは、奴隷のように扱われていた日本人が誇りを回復し意地を見せた見事な闘いだったからだ。又、日本人とは何かを知る上でも重要だからである。最近、ロシア人の日本人研究者が、この事件を、「シベリアのサムライたち」と題して論文を書いた。「サムライ」とは、私たちが忘れていた懐かしい言葉である。この事件を知って、私は日本人としてよくぞやってくれたと、胸の高鳴りを覚えるのである。

昭和三十一年八月十六日の産経時事は、「帰ってくる二つの対立―興安丸に反ソ派とシベリア天皇―」という記事を載せた。それには、帰国船内又は舞鶴で乱闘騒ぎやつるし上げなどの不祥事が起こる可能性が強いこと、二つの対立グループには、一方の反ソグループにハバロフスク事件の黒幕的な存在として知られる元陸軍中佐瀬島龍三が、他方には親ソ派でシベリアの天皇として恐れられた浅原正基がいること、又、帰還促進会事務局長談として、「浅原のように日本人を売った奴は生かしてはおけないといっている帰還者がいるから、何が起こるか心配している」という記事が載せられている。

 また、この記事は、問題のハバロフスク事件については、「ソ連の待遇に不満を抱き、昨年十二月十九日の請願サボタージュで、犯行の口火を切ったハバロフスク事件は、去る三月、ハンストにまで及んだものの、ソ連の武力鎮圧により、同十一日はかなく終幕、四十二名の日本人が首謀者としていずれかへ連行され、一時、その消息を絶った」と報じている。記事は簡単であるが事件の内容と結果は重大なものであった。事件からおよそ半世紀が経つ。この事件の重要性にもかかわらず、今日の日本人の多くは、この事件を知らない。


(1)ハバロフスク事件の背景

 ハバロフスクは、ロシア極東地方の中心都市で、アムール川とウスリー川の合流地点に位置し、シベリア鉄道の要衝である。強制抑留のシンボル的な都市で、多くの日本人は、ここを通って各地の収容所へ送り込まれ、帰国するときも、ここに集められてからナホトカ港に送られた。

 ハバロフスク事件の発生は、昭和三十年の暮である。日本人抑留者のほとんどは、昭和二十五年の前半までに帰国した。しかし、元憲兵とか、特務機関員とか秘密の通信業務に従事した者などは、特別に戦犯として長期の刑に服し、各地に分散し受刑者として収容されていたが、一般の日本人抑留者の帰国後、ハバロフスクの収容所に集められていたのである。

 前橋市田口町在住の塩原眞資氏は、昭和二十五年に帰国したが、その前はコムソムリスクの収容所におり、その後ハバロフスク収容所に移されていた。昭和二十三年に、ここに入れられたときのことを塩原氏は、その著「雁はゆく」の中で次のように述べている。

「この収容所に集結された者は、聞いてみると、日本軍の憲兵、将校、特務機関兵、元警察官、そして私のように暗号書を扱った無線通信所長等、軍の機密に関係した者ばかりの集まりであった。それからいろいろといやな憶測が頭をかすめる。この収容所に入れられた者は、絞首刑か銃殺かまたは無期懲役かと寝台の上に座って目を閉じる。」

 塩原さん達の帰国後も、この収容所の日本人達の苦しい抑留生活は続いた。そして、世界の情勢は変化していた。

 昭和二十七年、参議院の高良とみが日本人として初めてこの収容所を訪れ、一部の日本人被収容者に会ったとき、彼らは一様に、「日本に帰れるのか」、「死ぬ前に是非もう一度祖国を見たい」「祖国は私たちを救う気があるのか」と悲痛な表情で訴えたという。

ほとんどの日本人抑留者は帰国した。そして、昭和二十八年にはスターリンが死に、ソ連当局の受刑者に対する扱いは大きく改善され、ドイツ人受刑者も帰国を許された。それなのに、日本人だけは、従来と同じような過酷な扱いを受けている。高良とみに訴えた日本人の心には、このような状勢のなかでのいい知れぬ焦燥感と底知れぬ淋しさがあったと思われる。

 ハバロフスクの収容所の人々は、不当な裁判によって、その多くは、刑期二十五年の懲役刑に服していた。長い収容所生活によって体力も、みな、非常に衰えていた。それにもかかわらず収容所の扱いは相変わらず過酷であった。

 ハバロフスク事件は、収容所側の扱いによって生命の危険を感じた人々が、自らの生命を守るために団結して立ち上がった抵抗運動である。

 事件当時の状況を示す資料は、奴隷的労働の様子、与えられる食料のひどさ、そして、病弱者の扱いの不当などを示している。労働にはノルマが課せられ病弱者にも容赦がなかった。食料については、まず与えられるカロリー数が少ないこと。旧日本軍は、重労働に要するカロリーを一日、3800カロリーと規定していたが、収容所ではやっと2800カロリーであった。又、生野菜が極度に不足しているためビタミン摂取が出来ないのが痛手であった。日本人の食生活の基本は、本来、肉食ではなく、米や野菜である。従って、日本人の体にとっては、特に生野菜が必要であった。野菜がとれない、シベリアの冬は、特に深刻であったと思われる。余談になるが、最近のシベリアの小学校の様子を伝える映像として、冬期、給食の時、野菜不足の対策としてビタミンの錠剤が配られる姿があった。



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