私は学生時代居眠りばかりしてました。ノートの取り方だって、社会人になって、ヒトをどのように説得するか?の観点から自力で編み出したものです。
学生時代は、先生が、板書だけではなく、自分が考えた通りにアレンジしてノートを取るようにと言っていましたが、ピンと来ずに、先生も私も板書マシーンと化していました。
先生で、恩師といえる人は当然のようにいません。
小学校高学年の頃から、先生ってどうしてバカなんだろう?と思ってきました。
それが気に食わなかったのでしょうか、永田成志という先公は私に体育で10段階評価で"1"をつけてきました。
私は全く不良ではありませんでしたが、反抗的な態度を取る生徒でしたね。
そういえば、日立製作所の新人研修かなにかで、ツマラン講釈を垂れる講師がいたので、ふんぞり返って聞いていたら、その講師が私を見て怒りました。
私が日立製作所から目をつけられたのは、その頃かも知れません。
いや、そういえば、入社してすぐに、"大西"という社員の親を名乗る者から、自分の息子についてナントカ苦情のような電話を寄越した者がいたが、お前ではないか?と上職の庄司雅幸から言われました。
私は、そんなわけないですよ、と言っていたのですが、日立製作所の同期で大西が私しかいない点と、大西弘子の電話による裏工作を頻繁に見るに及び、このときや、高校の先生であった和田勝紀、大学の研究室等々に大西弘子が電話していたと考えると、すべてのつじつまが合います。
高校時代には、私は大阪大学への進学は極めて不本意で、親の意見も聞かずに高校まで行って、先生に浪人を直訴しにもかかわらず、和田勝紀が、「電車電車で夢を追うな」などと言いました。
そしてまんまと丸め込まれて、やむなく大阪大学に行きました。
後々になって、澤直祐という、私の従姉の子がやたら鉄道好きで、いろいろ尽力した者がいたのですが、彼も、「夢を諦めることが大人になることだ」などと、ドイツにいる私に対してメールしてきました。
どうも大西弘子がウラで、「夢を諦めることが大人になることだ」と吹聴しているようです。
大学時代だって、博士課程にいた阿部史江から、「ご両親は学問を志すよりも、機織りの後継ぎをして欲しいのでは?」などと言われました。
そんな突っ込んだことを言ってくるなんて、いま考えると大西弘子がウラ工作していたとしか思えません。
大西弘子って斯様にも、ヒトの人生を自分のためにと恣意的に弄んできたのです。
そう考えると、日立製作所に対して、私が関西に転勤になるようにしむける電話をしていたとしても、なんら不思議ではありません。
然るに私でさえ、新人時代に日立製作所の勤労かどこかに電話して、目をつけられるような行為なんて、畏れ多くてしません。(上に書いた通り、私は私で目をつけられる行為をしていたのですが)
大西弘子は権力に迎合しながらも、自分の欲望のために関してだけは、ものすごい行動力を示したのです。
その利己的な行動は、大西博昭が大西弘子に対して怒った時に言っていた"自分中心主義"そのものです。
大西弘子が、ペアレントでさえない単なるモンスターであることを、大西博昭は切実に主張していたのですが、暴力交じりだったこともあり、保育所の頃より私は大西博昭のほうがよりおかしいのだと思ってきました。
それにしてはたまに大西博昭が正鵠を射る発言をしたり、ゲームの能力が高かったり、私を軽トラに乗せて一緒に仕事しようとする ーこれこそ親の子供を思う行為であり、正常な判断力の発露であるー のを不思議に思っていました。
大西弘子のほうがおかしい、という発想の転換ができたとき、目から鱗が落ちると共に、私はすべてを理解したのでした。
ノートの取り方からだいぶ話題が逸れましたね。
私の知られざるエピソードも交えられたと思います。
共産党の杉浦はる子も、この投稿を見ていればと思います。
【追伸】
大西博昭は、私に対してただの一度も、私が"自分中心主義"であると言ったことはありません。
それだけ大西弘子は特異だったのです。
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