そして精妙なものへの瞑想・三昧は、最終的に、まだ存在として顕れる以前のものまで対象とすることになる。
まだ存在していないものまで瞑想で分かると言っているわけですが、どういうことでしょうか? 自分が生まれる前のことまで分かるということ? いや、もっと深いです。人類や生物や地球が生まれる前、宇宙が生まれる前のことまで分かるということを言っています。いわばビッグバン以前の状態が分かるということです。
インドでは紀元前の大昔から、現代の宇宙論と同じような考え方を持っていました。つまり、ある時ある一点から宇宙の展開が始まって、どんどんと膨張していき、そのあとは現代の宇宙論でも諸説あるようですが、今度は膨張の極限から収縮に転じる、あるいは最終的に宇宙の死を迎えます。そして、紀元前から伝えられるヨーガの哲学が言うところでは、再びまるで無に戻ったかのようになります。
「まるで」というのは、実際には無ではないからです。物質も心も完全になくなって、電波も重力も意識も自我もなくなって、何も存在しなくなるのですが、それは材料の状態に戻ったようなものなのです。
現代宇宙論でも、宇宙のインフレーション(異常膨張)の前には何もなかったかというと、物質やエネルギーとしてはまったくの無であったのだけれど、それでも無の「ゆらぎ」があったと仮説しています。つまり、宇宙が生まれる前には、普通の意味でいう存在は無であったけれど、音とも電波ともどんな存在ともいえない振動があったということです。物理学では、宇宙が収縮や死を迎えたあとどうなるかという話はあまりないようですが、ヨーガの哲学では、また宇宙が生じる前の材料の状態に戻るといいます。
例えば、皿でも壺でも形がなくなってしまえば、もう皿でも壺でもありません。皿や壺はもう存在しません。しかし、その材料である土塊(つちくれ)は残ります。そのように、物質も心も、個々の自我意識もそもそもの材料である原因の状態に戻ります。ですから、何といえるようなものは存在しないのですが、まだ何ものにもなっていない材料だけが存在します。
その何でもない材料の状態を、ヨーガの哲学では「未顕現のもの」あるいは「印なきもの」と呼びます。つまり、まったく何の印も特徴もない、存在としてまだ顕れていないものです。
それは物質(と感覚・思考)から、その精妙な本性、さらに物心を分ける原因になる自我の意識まで瞑想でさかのぼっていき、さらにその自分と他者を分ける個々別々の自我でさえも、いわば宇宙に一つだけの自我、宇宙意識といえるようなものに埋没していきます。それを大我と呼びます。それが存在といえるギリギリの状態です。
その大我、宇宙に一つの意識・自我さえも、消え失せてしまったかのようになるところ、それが「未顕現」の「印なきもの」です。しかし、先ほど言ったように、それも常識的な意味では非存在の無であっても、次の宇宙を展開する可能性を秘めた原材料の状態にあります。
「瞑想でそこまで分かります!」というのが、このスートラ(経文)の言いたいことでした。でも、これでもまだ真実の悟りではないんです。ここで止まってしまうと、残念な人になってしまいます。以前に出てきた、無を悟りだと勘違いする人です。ですので、まだ『ヨーガ・スートラ』は終わりません。第1章もあと6つスートラが残されています。
何だかオカルトか、トンデモ科学みたいに受け取られがちな話ですが、話は話、ヨーガ行者は自分で身をもって確かめることを信条としているので、情報・思想だけで盲信するということはありません。科学者が観察結果にもとづいて論理的に説明できることを目指すように、ヨーガ行者も方法は違いますが、自らの瞑想をそこまで深めていって実証を得ようとします。自己の根源を探求することで、身をもって解明します。それを体得とか悟りといいます。