古谷経衡(評論家)
絶賛か全否定か-極端すぎる評価
「SEALDs」(自由と民主主義のための学生緊急行動)について、左は絶賛、右は全否定、という極端な論評が続いている。折しも、武藤貴也代議士がツイッター上で「SEALDs」を「利己的」などと評して大きな批判を受けた。同議員は直後、週刊誌で報じられた未公開株を巡る不祥事で自民党を離党。またある地方議員は「SEALDsのデモに参加すると就職に不利」などと自身のブログに書き込んだ所、これまた多くの批判を受け、同氏が所属する市議会に抗議の声が殺到しているという。一方、「SEALDs」を「英霊の生まれ変わり」とまで賞賛する、やや度が過ぎた礼賛の声も聞こえてくる。そこまで持ちあげるのは、流石に如何なものかという気もしないではない。
「SEALDs」を巡る論調で問題なのは、その内容の精度ではなく、極端にすぎること。この一点につきよう。評価できるところは評価し、批判するべきところは批判する。「是々非々」という物事に対する当たり前の態度が、「SEALDs」を前にすると崩れ去る人が居るようだ。
「SEALDs」を目の前にすると何故人は理性を失うのだろう。何故正当な評価ができなくなるのだろう。それは彼らが正真正銘の若者だからだ。若者は無知で馬鹿で何事にも無関心、という従来流布され続けてきた若者を巡る定形イメージは、「SEALDs」には通用しないことは確かだ。羊のように大人しく、かつ無害である、と思っていた人物が突然アクティブになると人は動揺する。こいつは一体何なんだ、と分析してみたく成る。若者とはこんなものだ、と日常の中での皮膚感覚を有していればその動揺は起こらないが、普段からそのような思考の「訓練」をしていないと、被写体との適正距離を取ることは難しい。左は距離が近すぎ、右は距離が遠すぎる。どちらも「若者とはこんなものだ」という皮膚感覚が衰えているからこそ、崇めるように絶賛し、或いは親の仇のように呪詛する。この関係性は健康的ではない。
瞠目すべき評価点と批判点
さて、私は右寄りのタカ派だし、所謂「安保法制」もその成立を支持している立場で、微温的な安倍政権支持者だが、だからといって「SEALDs」を徹底的に貶して良い理由には当然ならない。まず彼らが若い、ことは既に述べたとおりだが、以下、瞠目するべき評価点をいくつかあげさせていただく。
イ)デモや抗議集会のやり方が洗練されている
ロ)告知や広報に使用するフライヤーやウェブサイトのデザイン性が優れている
ハ)抗議集会ではジャーゴン(組織内言語)を忌避し、若者言葉、わかりやすい平易な言葉を発するよう心がけている
この三つは、いずれも右派の抗議集会やデモにはみられないもので(だからこそ右派には猛省を促したい)、ここだけを切り取って評するのなら100点、というところだが、当然批判点も以下のようにある。
イ)所謂「安保法制」に反対する理論根拠が薄弱
ロ)イ)に関連して、スローガン、シュプレヒコールに説得力がない
ハ)平易な言葉を使いすぎていて、理論的ではないとの印象を受ける
ニ)実際の政治的効果はいかほどなのか疑問である
などであろう。「SEALDs」の抗議集会に集まってくる人々には、元来「反安倍」という政治色が濃いことは、想像に難くない。実際、彼らの抗議集会を訪れても、「辺野古移設反対」「ジュゴンの海を守れ」など、安保法制とは直接関係のないアマチュア活動家のような人々が所々にひしめいていた。元来「反安倍」の性質を持っている人は、「SEALDs」のシュプレヒコールに抵抗はないだろう。ところが、そうではなければ「ヤメロ」「NO」の連呼ばかりではちと心もとない。何故安保法制が危険なのか、何故安倍政権がダメなのか、その理論を彼らの口から聞きたかったが、理論展開は幕間に登壇するリベラル言論人や議員、或いは学者が補強していたようなきらいがあった。たとえそれが稚拙であったとしても、何故危険で何故ダメなのか。その理屈を、彼ら「SEALDs」の口から、長々聞いてみたいと思うのは私だけではあるまい。
「SEALDs」のアクションが、どれほどの政治的効果を持つのかも、疑問である。安倍内閣の支持率は安保法制衆院通過前後で、はじめて支持率が不支持と逆転されるなど動揺したが、「70年談話」以降は持ち直してきている。また、政党支持率でも自民党は微減か横ばいにとどまっており、対して「安保法制」に喧々囂々の批判の声を上げた民主党、社民党、共産党のそれは上がるかとおもいきやそのような兆候はなく、芳しくない。自民一強、の状況は何ら変わっていない。今解散しても、自民党は悠々280議席くらいは取ってくるだろうし、公明党と合わせて与党300議席超は変わり様もない。世論は冷静に、この国会内外の「喧騒」を傍観していた、という結論に到達せざるを得ない。
なぜ右も左も理性を失うのか
もちろん「SEALDs」のアクションが無意味である、と無慈悲に切り捨てる意図はない。政治的実効性はともかく、声を上げることは重要である、という意見には大きく賛同する。声が届いていないこと=無意味ならば、公民権運動も奴隷制反対も、最初の段階でやめたほうが良かった、ということに成る。
その主張の内容はともかく、声を上げる人を冷笑したり罵倒したりするのは適当な態度ではない。例えば「SEALDs」の背景に既存の政党の支配が見え隠れする、というまことしやかな言説。若者が政治活動をするにあたって、既存の政党から有形無形の援助や影響をうけるのは、右も左も同様だし、その疑いに合理的な証拠が存在していないから無効だ。
或いは、「金をもらってやっているんだろう」という負け惜しみにも似た罵声。こちらはもっと宜しくない。「金をもらってやっているんだろう」という説の裏返しは、「金をもらわなければやらない」という事になるが、現代の政治活動とはそのほとんどが損得を超越した地点での強烈な思い入れ(或いは思い込み)を原初としており、だからこそ、我の強い人たちが一箇所に同居することで、団体内での内紛や軋轢が起こるのだ。損得論ほど無意味なことはないし、いまどきデモの参加者全員に金一封を渡せるほど豊かな財源を持った政党や団体は居ないだろう。
どうも「SEALDs」を目の前にすると理性が吹き飛ぶ人が、右にも左にも多い。大学生の時、貴方はどうだったのか?と少し冷静になって振り返れば、おのずと答えは簡単だ。「政治に興味が無いことはなかったが、そんなことよりもバイトと単位とサークルと麻雀、どうやったら異性にモテるか。そればかりを考えていた」というのが正解だろう。その、怠惰で、永遠に続くかに思える青春のモラトリアムの退屈な日常空間を超えて、国会前に集まる大学生を「優秀」と評するのか、はたまた「異形」と評するのかは、読者の皮膚感覚にお任せしたい。